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山本“KID”徳郁お別れの会(2)山本郁榮氏「ファイターとして旅立っていった」、山本アーセン「今、逝ってもらったらキツいけど…」、矢地祐介「俺もこんな男になりたいと強く思った」

11月4日(日)東京・青山葬儀場にて『山本“KID”徳郁のお別れの会』が行われた。9月18日に41歳6カ月でがんにより逝去したKIDとのお別れ会は、同所にて11時から行われ、多くの選手・関係者が献花に訪れた。ファイターたちが語ったKIDの思い出、手向けの言葉をまとめた。(※後ほどコメント追記あり)

◆山本郁榮「徳郁は最後まで現役選手であり、コーチだった」

「徳郁が旅立ってから今日で49日になります。徳郁の名前は、私の名前の前に『徳』と入れ、私を越えていくようにという意味で名付けました。その思い通り、徳郁は私を越えていきました。

そして徳郁は3人の子供のなかでも一番、優しいのではないかと思います。幼い頃、姉の美憂が怒られてベランダに出されたとき、『お姉ちゃんを許してください』と懇願し、『ダメなら僕も一緒にベランダに出ます』と言って、一緒にベランダに出たという思い出があります。

5歳からレスリングを始めた徳郁は、私がバルセロナ五輪のコーチでスペインにいるとき、電話で『美憂がいるアリゾナの高校に編入したい』と言って、バルセロナから帰国する前に、アリゾナに出発していました。アリゾナ州では高校選手権で優勝し、大学では山梨学院大学でレスリングを学びました。大学4年で全日本学生レスリング選手権大会優勝(フリースタイル58kg級)。そして、(シドニー)オリンピック出場選考会を兼ねた全日本レスリング選手権大会決勝でラスト30秒で逆転され、オリンピックに出場することはできませんでした。

その後、ある1本の格闘技のビデオを観て、衝撃を受けて格闘技の世界に入っていきました。格闘技を始めてからの徳郁の実績は皆さんもご存じの方も多いと思います。修斗、HERO'S、K-1、UFCへと進んでいきました。常に前を向き、常に格闘技をもっと世界へ広げていきたい、ということを考えていました。ボクシングのように総合格闘技もメジャーになるように、若い選手が格闘技で活躍の場を持てるように、生活ができるように、と真剣に考えていました。

若い選手の戦いの場を作るために興行をしたい、と。その思いが形になってきたのが、『KRAZY-LEAGUE』であり『格闘代理戦争』への参加でもありました。徳郁は最後まで現役選手であり、常に若い選手たちのこれからのことを考え、トレーニング方法や練習方法を研究するコーチでもありました。美憂・アーセンのコーチとして、最後まで試合に勝つためのアドバイスをしておりました。そして最後まで弱音を吐かず、ファイターとして旅立っていきました。

きっと私たちのそばでこれからも『頑張れよ』と声をかけてくれていると思います。そして徳郁の想いがあった『KRAZY-LEAGUE』をこれからの若い選手の活躍の場として、みんなで盛り上げていくことが、私たちにできることではないかと思っています。

41歳と6カ月。徳郁は精一杯、駆け抜けていったと思います。今は亡き母と、空から私達を見守ってくれていると思います。徳郁に変わり、応援していただきました皆さまに感謝の気持ちと御礼を申し上げます。ほんとうにありがうございました」

◆山本アーセン(弔辞)「俺も絶対に諦めないから」

「ノリ、ごめん。みんなみたいに手紙書いてないけど、いいかな? 俺が幼稚園の頃、母ちゃんたちが喧嘩していやだなと思ったら、すぐに俺ん家来いよって、いつも俺の逃げ道を作ってくれてありがとう。そこからずっと服装だったり、音楽だったり、全部お下がりもらって着るのが楽しかった。覚えてるかな? 俺が小学生のとき、ジャマイカンカラーの網シャツで行ったの(笑)。ほんとノリの血を受け継いでいるな、と思ったよ。

格闘技でまだアマチュアの試合も何も出ていないとき、いきなりRIZINの試合が決まって、正直、いやだな、怖えなあと思ったけど、ノリが『俺、魔裟斗戦が決まったから一緒にタイへ行って、一緒に勝とうよ』と言ってくれて、タイでいろいろ教えてくれて、辛いときも楽しいときも一緒にいてくれて、ほんとうにありがとう。

でも、俺いま、やっと格闘技の楽しさとかが分かってきたときなのに今、逝ってもらったらキツいな……。また横にいて一緒にやりたかったな。でも、その分、頑張るから。ノリに心配かけないように、怒られないように、2倍頑張って、観客を沸かせるから。その観客の声、届けるから聞いててね。俺も絶対に諦めないから。最後の最後まで戦って、ノリさんのところにチャンピオンベルト巻いていくからね、待っててね。アイラブユー、ソーマッチ」

◆アーセン「1秒も『ああ、ダメだ』とか諦めかけたことはなかった」

「(喪服ではない姿に)今日はKRAZY BEE、みんなこういう格好です。じゃないとノリに『なんでそんな硬い恰好してんだよ』って言われるから。これはお別れ会とかじゃなくて、ノリがみんなを、家族をひとつの場所に集合させてくれたパーティなんで、明るく送り出してやりたいなと思っています。

気持ちとしては、死んだと思ってないです。ただただ身体が無くなっただけで魂は絶対ここにあると思うし。その分、ノリに怒られないように、練習頑張ってチャンピオンになってやろうと思っているんで。

(デビュー当時の練習ではずいぶん絞られた?)もうスパルタですよ(笑)。昭和オールドスクールに厳しくやってもらって。でもそう言ってくれるひとがそばにいなくなっちゃって寂しいですけど、自分なりに追い込めるように頑張ってます。

(KIDの闘病について)あの人はほんとうにびっくりするくらいに最後まで闘ってました。1秒も『ああ、ダメだ』とか諦めかけたことはなくて、ほんとうに毎日頑張ってました。もう横で見ていてもカッケーなっていうぐらい、ほんとうに闘ってたんで。そこはやっぱ俺の師匠はカッケーなっていう感じですね。絶対に弱音を吐かない。だって病気が重いときも、俺、髪切ってもらったんですから。『アーセン、髪切ってやるからこっち来いよ!』って坊主に。それぐらい弱いところは見せなかった。

(一番の思い出は)……いっぱいありすぎてわかんないですね。すべてが最高の思い出です、俺んなかでは(言葉に詰まる)。言葉も全部です。一言ひとことが重いし、仙人みたいなもので、言うこともやることも神がかっているというか、一つひとつ心に刺さる。だから一つの言葉だったり、一つの思い出とかは選べきれないですね。

やっと格闘技のことが分かってきたのに、いま、逝っちゃうのかっていう残念さはあるんですけど、そのかわりにいま俺がここで見せなきゃいけないのかなって思ってます。だから毎日、全力で練習しています。一番の恩返しはもちろん、ベルトを巻くことだと思うんで」

◆矢地祐介「俺もこんな男になりたい、こんな男になるんだと強く思っていました」

「KRAZY BEE選手代表として、お別れの言葉を捧げます。KIDさん、正直まだKIDさんの訃報を受け入れられない自分がいます。『おー、矢地、元気?』とジムに顔を出してくれるような気がしてなりません。

初めて会ったのは15歳の頃。KILLER BEEに入会してすぐのことでした。色白でガリガリでいかにも格闘技ジムが似合わない、そんな風貌のクソガキだった俺にも、『頑張れよ、いっぱい練習して強くなれよ』と優しく、気さくに声をかけてくれたのを覚えています。その時からKIDさんは俺のなかで唯一無二のスーパースターです。

KIDさんは何から何までカッコよくて、10代の多感な時期を近くで過ごした俺はファッションを真似てみたり、同じ音楽を聴いてみたり、口癖を真似てみたり、格闘技のことはもちろんですが、KIDさんのすべてに憧れ、すべてに影響を受けていました。リングの上でもジムでもストリートでもプライベートでもどんなときでもKIDさんはカッコよくて、俺もこんな男になりたい、こんな男になるんだと強く思っていました。

成人してからは町にもよく飲みに連れていってくれましたね。どんなときにも俺たち後輩のことを気にかけてくれて、みんなが楽しくなれるようにふるまってくれました。いま思い出しても楽しい思い出ばかりです。2人で遊びに行ったあの日のことは忘れません。

そして時が経ち、俺も今では大きな舞台で活躍できるようになりました。今までKIDさんから受けたたくさんの優しさを、たくさんの愛を、KIDさんに、そしてジムに恩返ししていこうとそう思った矢先の訃報でした。だから、本当に悔しい気持ちでいっぱいです。KIDさんのように日本の格闘技界にブームを起こし、活躍してくところをそばで見ていてほしかったです。そしていろんなアドバイスを聞きたかったです。

若手育成に力を注いでいたKIDさんは、まだやりたいことが、後輩たちに伝えたいことがたくさんあったかもしれません。でも安心してください、KIDさんの魂は俺等選手たちに確実に受け継がれています。ジムもチームKRAZY BEEも選手、スタッフも会員さんたち、みんなで盛り上げ、みんなで守っていきます。だからいまは天国で、疲れた身体を癒し、ゆっくり休んで下さい。そして……俺たちがそっちに行った時には……また、いろんなアドバイス…………(泣きながら)いろんなテクニックを教えてください。KIDさん、今まで本当に、ありがとうございました」

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