プラムフィールドの虹 『若草物語 ナンとジョー先生』

※同人誌『Vanda』13号(1994年3月発行)に寄稿した文章の再録です。『Vanda』は(故)佐野邦彦氏と近藤恵氏が編集発行した同人誌です。

 来年の名作劇場は『愛の若草物語』の続編だ、と聞いた時、これは絶対に見るぞと心に誓うものがあった。
 『愛の若草物語』は、ルイザ・メイ・オルコットの有名な少女小説のアニメ化で、1987年(昭和62年)の名作劇場で一年間放映されている。
 『愛の若草物語』は私に、TVアニメで一番重要なことはキャラクターの魅力である、という当たり前のことを改めて思い知らせてくれた作品だった。メグ、ジョー、ベス、エイミーの、それぞれ容姿も性格も違う四姉妹、とりわけ、小説家志望で男まさりの次女ジョーの存在感とその魅力は強烈だった。
 そして今回の『若草物語 ナンとジョー先生』は、タイトルからも分かる通り、成長し、結婚して先生となったジョーを中心にした物語だという。
 日曜の夜は忙しい。遠出をして帰りが遅くなることも、家事まっ最中のこともある。それでもビデオを駆使し(ひどい時は裏番組と合わせ3台のビデオが稼働していた)一年間見続けて来られたのは『愛の若草物語』の続編としてのキャラクターの魅力に加えて、そのドラマの充実ぶりにあった。
 『ナンとジョー先生』を見て、まず目を奪われたのは、画面のクオリティーの高さだった。キャラクター設計&作画監督に『となりのトトロ』等の佐藤好春さんが携わっているので、当然と言えば当然ではあるのだけれど、知らない人が見たら新しい宮崎アニメと思い込むのではないかと思われるほど美しい画面、魅力的なキャラクター達、巧みな作画。
 そして回を重ねるにつれ、ドラマの充実ぶりに目を見張らされることになる。
 『ナンと…』は、ジョーが夫と共に家族ぐるみで開いた小さな学園プラムフィールドを舞台にしている。そして第1話は、学園の卒業生ナンが10年後にここを訪れる場面から始まる。
 「大人になると誰もが忘れてしまう、自分がかつては子供だったことを。子供時代、どんな思い出を持ったかで、大人の人生が決まるのだ。」そんなモノローグと共に、ナンの言う「魔法のような思い出」「生涯たった一度の美しい奇跡のような、学園との出会い、先生との出会い」の物語が始まる。
 かつての男まさりのジョー(彼女はジョセフィーヌという女らしい名前を嫌って自らジョーと名乗っていた)を彷彿とさせる、11才のおてんば娘ナンのプラムフィールド到着でドラマは幕を開ける。ナンを中心に、学園の仲間達とのエピソードや、ジョー先生やベア先生の教育にかける理想を描きながら、更にはジョーの幼い頃の『若草物語』の家庭でのエピソードまでを織り込みながらドラマは展開される。
 最初の小さな波紋は第5話『小さなバイオリン弾き』だった。大道芸人の子として恵まれない放浪生活の果てに父親を失い天涯孤独の身となった少年ナット・ブレーク。雨の中をたった一人でプラムフィールドを訪れたナット。細やかなカットの積み重ねから、このひ弱な少年の不安な心情が伝わって来る演出の手堅さ。(※2021年的注:この回の絵コンテは片渕須直である)。
 放浪生活のため文字の読めないナットに、ベア先生は自信を持つことを教え、学園の仲間達はそれぞれの得意な知識を分け与える。
 と、こう書くと、いかにものタメになるお話的だが、実際は、跳ねっ返りのナン、ナンに負けず劣らずのいたずら坊主トミー、食いしんぼのスタッフィー等々の個性的なメンバーによって話はすぐにごちゃごちゃになり、実に活気のある画面になっているのだ。実はさっきから何回も「学園」を「楽園」と書き間違えているのだけれど、その通り、ここは楽しさでいっぱいなのだ。
 プラムフィールドは住み込み式の学校、というよりは家庭のような学園。ここでは勉学の他に、一人一人がそれぞれのなすべき仕事を受け持ち、畑を与えられて自由に作物を育て、各々の生き物を飼っている。快活で情熱的で強い信念を持ち、深い愛情を子供達に注ぎ続けるジョー先生と、たまに昔のおてんばぶりを発揮して暴走する妻を常に暖かく見守っている、冷静で広く大きな心の持ち主ベア先生。そんな二人のプラムフィールドにかける夢と理想は、一人一人の個性を生かし、自分だけの才能を伸ばして、自分の力で人生を切り開いていけるようになってほしいということ。「どんな子供にも必ず良い所がある、それを見つけて伸ばしてあげたい、太陽と雨が自然に花を育てるように」とジョーは言う。ここには、現在の管理教育に欠け落ちている、待つこと、信頼すること、任せること、といったことが生きているのだ。
 子供達の自主性を重んじる毎日の中で、自由とは何をしても良いということではないこと、規則とは人を縛るためにあるのではなく、皆が快適に暮らすためにあるのだということを、ナン達は実際の体験や事件の中から身につけてゆく。
 さて、ところが、こうした展開ばかりでは、プラムフィールドは現実から切り離された、選ばれた子供達(実際、この学園には縁故関係で集まった子供や、ジョー達のいわばおめがねに適った子供が集まっている。先述のナットもジョーの旧友ローリーに見出されてここに送られて来た)の集まりである疑似ユートピアではないかという反感も出よう。
 そうした意見を見越すかのように、物語は第11話『街から来た無法者ダン』で大きな転機を迎えるのだが、それまでは、ナンとデーズィの初めてのパイ作り、おもちゃの修理、枕投げ合戦、等が繰り広げられるプラムフィールドの快活な日常を十分に楽しんでおこう。
 さて、招かれざる客であるダンは、彼を街でのたった一人の友人と信じるナットの呼びかけに、本当にプラムフィールドにやって来たのだ。身寄りもなく、ケンカに明け暮れる荒んだ毎日を送って来た15才の少年ダンの登場で、学園には嵐が吹き荒れ始める。ダンの態度に単純に腹を立てるナン、不良っぽいカッコよさに憧れを抱くトミー、など子供達それぞれに違う反応を描いているのもいいが、一番いいのが農夫サイラスとの場面。
 余談だが、このサイラス、『赤毛のアン』で私が一番好きな人物、アンの養い親のマシュウ老人にイメージがよく似ている。声も同じ槐柳二。サイラスの「そうさのう…」を聞きたかったのは私だけ?
 サイラスはダンに畑仕事を手伝わせるのだが、持ち場を任せて去る。戻ったサイラスが見たものは無残に折られた草刈り鎌…。「わしはああいう子には信頼してやるのが一番と思ったんじゃが…」。サイラスが善良な人物であるだけに、大人の一方的な思惑などにうかうか乗ってたまるかというような、このエピソードはグサリと来るものがある。そんなダンにジョー先生は暖かく声をかける「私はあなたを信じるわ」。
 ダンの心を開いたのは、大人達よりも、学園の一番小さな住人3才のテディの純真さだった。なんの恐れ気もなく手を差し伸べてくるテディにダンの心は次第に和んで来る。そんなダンの姿をかいま見たナンの態度もまた。
 次第に皆と打ち解けたものの、街での暮らしの刺激を忘れられないダンは幾つもの事件を引き起こし、遂に第16話での、火事という事態に学園を去らざるを得なくなる。ベア先生の友人の博物学者ページさんに預けられることになったダンを、必ず帰って来るようにと送り出すジョー達。
 やがてダンはジョーの言葉通り学園に戻ることになるのだが、その間の数話は、それまでのシリアスな展開の澱を吹き飛ばすかのように、明るく楽しい話が続く。スタッフィーの過保護ママとジョー先生の対決『ママがやって来た』(第18話)、男の子と女の子の小さな対立『舞踏会へようこそ』(第19話)、ナンとジョーのおてんばパワー全開の第20話『大きくなったら何になる?』。
 一方、ページさんの農場のダンは、豊かな自然と物言わぬ小さな生き物達に囲まれた生活の中で、ページさんに導かれ、博物学に興味を持つ少年に変わりつつあった。
 第22話『ページさんからの手紙』で、心を開いたダンとページさんが、大空にかかるダブルの(二段重ねの)虹を見る場面は、『ナンと…』の幾つもの名場面の中で最も美しいものに属する。大空を舞うタカに孤独な自分を投影するダンに、ページさんは、タカは全ての自然と共にあることを教え、「お前は裏切られ傷つくことが怖いのだろう。しかし人間は誰かを愛し、誰かに支えられなければ生きてはいけないのだ。お前はもう既にお前を必要とする人達のために生きておる」と言う。ダンの前をプラムフィールドの仲間達の面影が交錯する。
 ページさんの留守に、昔の不良仰間の襲撃を受けたダンは、足に重傷を負いながら苦しい旅を続け、夜のプラムフィールドにたどり着く。ダンの生命を救ったのはページさんから伝えられた博物学の知識だった。夜の庭に倒れるダンの手には一輪の白い花。それはかつてジョーと交わした、心からこの学園の仲間になりたいと思った時にという、約束の花だった。
 そののち、トミーのお金の盗難事件という試練や、デミとデーズィの父であり、ジョーの姉メグの夫であるブルックさんの死という悲しみを乗り越え、一回りも二回りも大きく成長し、固い友情で結ばれる仲間となったプラムフィールドの13人の子供達にも、やがて別れの時が来る。
 広い世界への欲求に突き動かされ始めたダンをページさんが南米へと誘ったのだ。そしてトミーも新たな勉学のためにボストンの学校へ移ることになる。
 最終話は、トミーの旅立ちを一ヵ月後に控えた、ダンの出発の日を描いたものだった。誰もが成長し、やがてはここを巣立ってゆくことを認めたくなかったナンも、「お医者さんになりたい」という自らの夢をしっかりと抱くことで、それを自然のこととして受け入れることが出来るようになった。「生きてゆくことは前を向くこと、自分の努力で明日を変えてゆくこと」というジョー先生の信念は、子供達一人一人に伝わっていったのだ。
 こうして、10年後、若き医師となったナンの回想の物語は幕を閉じる。ナンのモノローグと共に、10年後の、それぞれの夢をかなえたプラムフィールドのかつての子供達の成長した姿が、次々と映し出される。
 こうした物語を絵空事として批判することはたやすい。しかし監督(楠葉宏三さん)の言われるように、アニメーションが語るドラマとは一つの「夢の物語」であるとするならば、成長した子供達がそれぞれの望み通りの職に就くということが、スタッフの夢と、子供達への愛惜の表われ(原作では必ずしもこの通りではない)であるように、今は素直にこの物語を楽しみたい。
 と同時に、一年間に渡って高いクオリティーを維持し続けてくれたスタッフの尽力と、女性らしい細やかさと情熱で殆どのエピソードを書き通してくれたメインライター島田満(みちる)嬢の力量に大きな拍手を送りたい。盗難事件の犯人と疑われたナットに寄せるデーズィの真心、二人の心のふれあい(第27話の涙味のアップルパイ!)など、この人でなければ書けなかったろう、出色のエピソードだった。
 そして、名作劇場が20年を越え、先人が手探りで始めた作品作りのノウハウがしっかりと根付いて大輪の花を咲かせたことを心から喜びたい。
 最後に特筆すべきはジョー先生役の山田栄子さんの素晴らしい声の演技。アニメーションの、というよりも洋画の吹き替えのそれのような、落ち着いた大人の女性としての演技は『ナンとジョー先生』の作品全体に大きな幅と魅力を与えてくれた。かつて『赤毛のアン』で初お目見えした山田さん自身の大きな成長がうかがい知れて、とても嬉しい。

初出:『Vanda』13号(1994年3月、MOON FLOWER Vanda編集部 編集発行)
※特集ではなく、自由テーマでの単独執筆の号。
※『若草物語 ナンとジョー先生』は1993年1-12月の放送。監督=楠葉宏三、脚本=島田満、キャラクターデザイン=佐藤好春。片渕須直が絵コンテで多く参加しているのも特筆で、文中で言及している第5話、第22話も片渕の絵コンテである。
ちなみに『愛の若草物語』は1987年1-12月放送。監督=黒川文男、脚本=宮崎晃、キャラクターデザイン=近藤喜文・山崎登志樹。

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