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生きていたら76歳になる亡き父をdisるを通り越して感謝する投稿

サワッディーカ🇹🇭こんにちは
タイ在住日泰ハーフのごまりちゃんgomarichanです✨

生きていたら今日76歳の誕生日になる、
亡き父ヨシローについて娘の立場として
今どう感じているのか綴っていきたいとおもいまつ!

✨✨

もうそんなに経つのかぁ。

今でも思い出さない日は無いくらい
わたしに深く深い(不快?笑)印象を残して去って
早5年。

彼のおかげで今のわたしの大抵のことでは
微動だにしないメンタルを鍛えてくれました。

彼は戦後生まれのベビーブーマーで演劇が大好き、
学生運動にも参加したけど諦めちゃったといって
一度も選挙に行かないまま
テレビが大大大好きなインドアヒッピーでした。

そんな彼は自分の好きなことしかしないし、
したくないのパイオニアと言いますか、
父だけでなく、タイ人の母チュアムも
同じタイプなので子どものわたしも
必然的にそうなるのはよくわかりますなぁ🤣🔥

病院に行くと病期になるから行かないと、
自分で購入したマンションのソファを寝床にし、
ベッドがあるけど毎日ソファで眠り、
ソファの上で最期を迎える彼のシナリオ通りの人生に、わたしはとても感動したのをよく覚えている。

人が老い、枯れて亡くなるとは、
どういうものか最後の最後まで人間の生き様を魅せてくれた。

本当に枯れるようにして亡くなったので、
レスキュー隊の人たちも亡骸の綺麗さに驚いていた。

そこからわたしの死生観が大きく大きく身近なものに、当たり前にあるものとして、
決して怖いことでも無いものとしてわたしの中にある。

ヨシローは病院が嫌いだったので、
子どもの頃から病院の付き添いは母チュアム。
(だから夫に出会うまで病院は1人で行く所だった)
ヨシローはバイク🛵事故で足の骨やっちゃった以外は頑なに病院を拒否🏥していた。

当時のわたしは偏屈な野郎だなぁ、
と病院の恩恵にあずかり有り難がってた人の
1人だった。

病院に着くと安心して落ち着くくらいに、
病院の通訳をやりたいと思っていた程。
病院にお世話になってたし、
医師の判断全てに何一つ疑問に思うことが無かった。
わたしの全てを委ねていた。

子どもが生まれるまでは。

子どもが生まれてからわたしも強くなった。
この子を守るという本能が発動し、
精神的に親離れもできて距離を取れるようになった。
(わたしは親から離れるために病院を利用していた面もあったのかもしれないなぁ)

友達を作る気もない、
ヨシローのたった1人の話し相手になり続ける事を
拒否していた自分の気持ちにも氣が付き、
実家に訪問する際は必ず夫同伴で防波堤の役割をお願いしていた。

余りにもヨシローに対してわたしの塩対応すぎて、
子が産まれて2年後に亡くなった。(とわたしは思っている)

そして今、わたしはヨシローに大分似てきている🤣

反面教師、怒りのコントロールをして自分の子どもっちに飽きられないようにニコニコ自分のご機嫌を自分で保っていこう❣️お〜!

ありがとうお父さん
大好きだよ
本当にお父さんの子にうまれてきて良かったよ!
本当はいらなかったなんて思ってないこと言わないでね!
自分が幸せだと思う子ども時代を過ごせなかったから子どもに対してどう接していいかわからなかったんだもんね、だからそんな自分に育てられるくらいなら子どもは作りたくないって癒えば良かったんだよ!

でも大丈夫、そこまでの意味を汲み取るのが
わたしのクエストだったんだね!


✨🦀全てはうまく行っている🦀✨

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