考えることは立ち止まること

Eテレ『欲望の時代の哲学2020、マルクス ガブリエルNY思索ドキュメント~第二夜 自由が善悪を取り違えるとき』から

人間の自由意志や自由に対する解放感はすべて大きな危険を伴う。人工知能が私たちを操作し、SNSや政府、マーケティング、近代資本主義、家族、日本型組織やテレビ、経済界など大きな組織など・・・これらすべての存在が私たちを不自由にさせてるのではないか。私たちは本当に自由なのであろうか。

この自由ということに着目して、ここで私たちは深い意味で自由であるが、同時に操作され、管理されうること、人間は本質的に自由であるが故に操作管理され、自ら進んで奴隷を志願するというパラドクスを解明しよう。

ドイツ哲学の主要概念である<精神 Geist>は、あなたは現実の外部なのではなく、現実の一部であることを意味する。

【考え方の癖】

主体と客体を切り分けて、主体である自分は客体である現実と関わっていないと考えてしまうことに問題がある。自分を自分以外の現実と切り離して考える癖。

〔カント図式で言えば、<自分>とは主観であり<現実>とは物自体の世界で、主観は自分がまるで現実とまるで何の関係もないかのようにーつまりこれが超越論的・先験的と言う意味であるがー対象世界に越境していく。現実を認識する主観が、自分を取り巻く現実世界から独立して完全な能動性を発揮するということはあり得ないということなのだ。〕

〔ところが〕私たちもまた現実の一部である。その認識からすべてが始まる。だが時に人は自分を超えた巨大な存在に圧倒され、自ら自由を放棄する。自然の法則、隅々まで設計された社会システムへの無力感、その無力感も実は我々の認識の仕方が生んでいるに過ぎないとしたら。決定論と共にいつも自由意思はある。

→作家・カート・アンダーセン『狂気と幻想のアメリカ500年史』

この数十年でこの国のヴァーチャルとリアルの把握がなぜ不安定になり制御不能になったのか。私たちは気づいた、問題はもっと以前に遡ると。この国のヨーロッパ人開拓者たちは極端なプロテスタントだった。「私が真実と感じたものはすべてが真実だ。なぜなら私が真実だと感じるから真実なのだ」と。聖書にあることは神父様におしえてもらわなくても自ら理解できるという超主観性。それがこの国で極限まで進んだ。極端なプロテスタントがショービジネスと融合した。

資本主義はショーだ。そもそも生産(pro・duce)とは何か?つまり商品の生産とはいわば見せるための「ショー」なのだ。今では資本主義はすべてがショー化している経済システムだ。

〔ギ・ドゥボールの『スペクタクルの世界』、資本主義的生産・労働における使用価値と交換価値の分離、生を断片化してイマージュとしての意匠を施された商品として消費〕

18世紀から20世紀にかけてアメリカの宗教のユニークな部分はショー的な気質だ。牧師が演技をしてショーを繰り広げる。この50年間でショービジネスはすべてを飲み込んだ。デズニーランドやテーマパーク化したレストランなどは最も分かりやすい例だ。

誰もがフィクションや幻想が織りなす現実に触れている。この街はとても美しい。理由の一つは幻想が織り込まれているからだ。ウディ・アレンレイヤー、サインフェルドレイヤー、ブロードウェイ、文学・・・この街では文化が可視化されている。哲学者として矛盾を感じるのは、ドイツではガイストと呼ばれる全体の次元・・・精神、いわば文化に結びつく行為がアメリカでは幻想ということになってしまう。アメリカ人にとって人間とは脳の情報処理プロセスにおける電流のオン・オフと同じだということだ。(科学的唯物論)アメリカの主なイデオロギーに科学的唯物論があり、同時に精神の層、ハイレベルな大衆文化がある。それは興味深い矛盾だ。

科学的唯物論に対してキリスト教への信仰とこの国は常に二極化していた。

ただの二極化ではなく実用的で産業に結びついた科学技術の進歩と空想的で非現実的なものが常に共存している。最近では様々な面でその境界が見えづらくなってきている。コントロールされたファンタジーから制御不能な事件へ。

統治とは自由を与えすぎないようにうまくやることだ。人は自由を取り違えたとき現実から目を背け、幻想の世界に閉じこもるのか。

フェースブックやグーグルはただひたすらあなたを利用するだけ。なぜならあなたは自由だから。資本主義の果てしない破壊的消費でさえ私たちの自由を奪うことはない。なぜなら私たちの欲望は〔資本主義的につくられた〕人工的なものだから。

社会状況やマーケティングが私たちを無限の消費へと駆りたてる。

〔調整原理を欠いた欲望=自由の暴走〕

グローバル資本主義よりもっといい自由意志の使い方はないのか?

【善い自由と悪い自由の区分】
  自由とは善と悪の能力だ。(シェリング『人間的自由の本質』)

間違いを犯すことも自由、不公正な社会とは自由度が減少することを意味する。自由な人々が私たちの心に悪い考えを植え付けたからだ。私たちは悪を知っている。

未来の人々を含め人間の協調する空間を増やすことが善という概念だ。

地球の破壊が悪なのは未来の人類が自由を失うからだ。破壊は自由の行使だが私たちの将来の世代には不公平で不正義ということになる。それを理解するには概念が必要であり、哲学が有効なのである。

絶え間ない消費という悪の構造は私たちが哲学を学ぶことを望んでいない。悪の構造を持つCEOは悪の哲学の概念を持っている。哲学の概念をどう使うかは自由意志次第。

欲望を満たすことはできるが、欲望を欲することはできない。(ショーペンハウエル)

自由の仮面をかぶった悪は絶えず私たちを誘惑する、私たちの精神を飼い慣らす。だが、そのとき立ち止まって考えることはできる、哲学が理性の力を呼び覚ます可能性にかけて。


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