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「つながりたくない人なんて、本当はいない」Goldilocks CEO 川路武 インタビュー 

Goldilocksのメンバーの考えや人となりを第3者目線でじっくり聞いていく『DEEP  INTERVIEW』。ファウンダーの川路武さんにお話を聞きました。

< 聞き手:永野広志(Paul.)


株式会社GOLDILOCKS
ファウンダー/CEO/ソーシャルキャピタル醸造家
川路武

ルールのない家で「人」を信じることを学ぶ

ーどんなご家庭だったんですか?

父は普通のサラリーマンだったんですが、母がちょっと変わってましたね。働く女性を応援したい、と言って、家でご近所の子どもを何人も預かっていたりして。多い時は15人ほどの子どもたちと暮らしていました。

ーまるで大家族ですね。

そう、大人数に囲まれて、わあわあ言いながら育ったから、いまだに他人とモノを共有することに抵抗がない。あんまりこだわりがないんですよね。それに、母はルールを破るというか、破天荒なことをするのも好きな人だったんです。

ーなにかエピソードが?

その当時、家の裏のアパートにイラン人の若者が5人ほど住んでいて、近所の話題だったんですよ。あれはテロリストなんじゃないか、って。僕自身もちょっと警戒していたんですけど、家に帰ったら、そのイラン人たちが食卓でご飯を食べてるんですよ。母が「この方はニマルさんというのよ」なんてのんびりしたこと言ってて。

ー仲良くなる力がすごいですね。

なんでも、母が家の周りに植えたゴーヤをニマルさんたちが指差したので、それをきっかけに声をかけて、ごはん食べにいらっしゃい、なんて流れになったみたいで。で、話してみたらすごくいい人たちだったんですよ。実は、その中の一人はイランの航空会社の御曹司だった。後日エアメールが届いて「イランに来てください」って招待されるんですけど、母はそんなことあったっけ?なんて言って、覚えてもいないんです。

ーお母さんにとっては、いつものことだったんですね。

そんな環境で育ったから、人は、しっかりと話して関係をつくれば、わかりあえるはずだっていう思いがあるんです。知らないから怖がってるだけで、ほとんどの場合が思い込みなんだって、心に刻み込まれてるんですよね。人を信じるベースが身についたというか。こんなことを話すと、それは今までの人生がラッキーだったからだ、なんて言われるんですが。それでも信じたいんですよね。人は話せば分かるって。

レールに乗った人生から外れたかった

ーそんなご家庭で育って、青春時代はどう過ごされたんでしょうか?

中学を卒業するまでは何にも考えてなかったですね。勉強はしていたので、進学校に進むんですが、高校1年が終わる頃に思い立ちました。そうだ、留学しようって。

ー急ですね。何かきっかけが?

そんなにやりたいことがハッキリとあったわけじゃないんですけど、このままレールに乗った人生は嫌だなと。1月1日にそう思って書き初めで「海外留学」って書いて、すぐに情報を集め始めました。留学にかかる費用は日本にいる場合とあまり変わらない事や、単位が振り替えられるから高校に編入できること、などなど。そして、それらの資料をまとめて、両親にプレゼンしたんです。その甲斐あって無事留学が決まりました。実は高校の単位扱いにならなかったので、帰ってきてから、高校には計4年通うことになるのですが…(笑)。

こだわりはないけど、やると決めたことはやる

ーその頃から経営者の片鱗がありますね。まるで株主にプレゼンしているかのように…

そんなたいした話ではないんですけど、まあ、その時は苦に感じませんでしたね。あまり「大変だ」とか口に出すのが好きじゃないんですよ。やると決めたら淡々とやるべきことをやるというか。

ーそれに、飛び込む度胸というか、勢いがあるのもご家庭の影響なのでしょうか?

いま考えるとそうかもしれないですね。父や母に、何かを止められたり、ブレーキをかけられた覚えがあまりないような気がします。ホストファミリーは空軍基地の中にあって、ビザがないとモノも自由に買えなくて大変だったんですが、最後まで通い続けましたね。

ーそして、帰国後、大学へ。

アメリカのフロリダ州に留学していたんですが、そこでアメフトと出会うんです。帰国したらこれをやろう、と決めていました。それで、日本の大学4年間は、アメフトに打ち込みました。ディフェンスラインというポジションだったんですが、大変な日々でした。どんどん人が辞めていくんです。

ーよく辞めずに続きましたね。

なんでしょうね。実はそんなに好きではなかったんですが、続けてましたね。モテるんじゃないかというのがあって(笑)仲間もいましたし。アメフトがなくなったら何もなくなってしまう、という気持ちがあったんだと思います。体育会の上下関係を覚えて、自然と社会人になる準備ができていました。

ーやはり、やると決めた事はやり切るんですね

そういうタイプだと思います。大学4年の時に単位が40も残っていて危なかったんですが、ノートを譲ってもらったり、先生と交渉してレポートを提出したりして、なんとか卒業しました。

ー就職活動はどのようにされたんでしょうか。

姉がいるんですけど、当時の三菱銀行に勤めていて。「業界No.1の企業に入れば、たくさんの情報が入ってくるよ」というアドバイスが心に響いて、いろんな業界のNo.1の企業ばかりを受けていました。マスコミ系に進んでしまったら、自分は遊んでしまいそうだな…と思い、その業界だけは避けましたが(笑)

ーわかりやすい就職活動だったんですね。なぜ三井不動産に決めたんですか?

単純にですね。OB訪問や面接の中で、人柄が魅力的だったので、三井不動産に決めました。結局何やってるかなんて学生が調べたところで深くは分からないし。

人と人の間をつなぐ楽しみ

ー入社してからは、どんな社員だったんでしょうか?

コミュニティ、都市開発、DX…12以上の部署異動を繰り返しながら、いろいろやりました。すごく自由にやらせてもらってました。

ーご自身で、強みや得意技はなんだと思いますか?

やっぱり、コミュニティづくりですかね。マンションの入居が決まった人にだけ送るメールマガジンや、入居者同士がコミュニケーションをとる挨拶会のしくみや場づくり、そんなことが好きだし、興味があったんです。

ー印象的なお仕事はありますか?

とあるマンションの設計を、某遊園地ブランドの植栽の会社といっしょに考えて、バックグラウンドストーリーをつくったんです。マンションの造作ひとつひとつに意味を持たせて。でも、それはには購入者には言わなかった。入居者の方々にも秘密にしていて、入居日にお手紙として種明かしをしたんです。すごく感激していただいて、このマンションに住むことを特別なストーリーだと感じていただけました。そうやってアイデアを形にするのがやりがいでしたね。買うって言った方にだけ見える秘密のサイトをつくったり。

ーすごく個性的というか、自由なやり方ですね

そうなのかもしれません。ディベロッパーとしての大きな都市計画に憧れて入社したわけでもなかったので、コミュニティづくりの興味と組織が求める利益の間をうまく調整しながら、やはり自由に働かせてもらっていました。

ーバランス感覚がすごいな、と感じたのですが、やりたいことだけに走らず、組織の論理も考えながら進めるやり方は、どうやって学ばれたんですか?

清濁併せ飲む、のが得意技でして(笑)こだわりがそんなになくて、やるべきことはやる。だけど、興味があることは、しっかりと準備をして、説明していく。割と地味で泥臭いことを、あまり苦に感じずやり切るっていうのが、コツといえばコツなのかもしれません。

ー他に自覚されてる特技はありますか?

チームづくりですかね。優秀な人を口説いていっしょにやる。そのために表玄関から連絡して問い合わせるんですけど、大企業の人はけっこう不得意なのかもしれませんね。最初は下手でしたが、何度もやって鍛えられて、得意になりました。思わぬ人を連れてきてうまくいく。そういうのが好きなんです。

ー社内でも目立ってたんじゃないですか?

変わり者だったことは間違いないですね。100人いたら1人は私のことが大嫌いだっていう人がいます。でもそういう噂を聞いちゃったら、すぐにその人のところに飛んで行っちゃうんです。「聞きましたよ〜私はあなたのこと何にも悪く思ってないんです。ちょっと今夜飲みに行きましょう!」って言って。

ーすごい動きですね(笑)

そうしたら、たいていは誤解がとけて、すごく仲良くなったりするんですよ。結局、挨拶がなかったことを怒っていた、とか、そういうささいなことが原因で。話してみたらいい奴だってわかった、みたいな。

ーそういうことが世界中でできたら、もっといい世の中になりそうですね

そのためには、人の行動が変わるような環境ごとつくらないといけないんです。だから、得意技である建物や施設を軸に、しくみやデザインを駆使して、人と人のつながりをつくっていきたい。そう考えています。

未来のことを考えると起業だった

ーそうなってくると、もはや違う業態というか、ディベロッパーとは違う目的意識で動いているように見えてきます。

だんだん、自分が信じる価値と組織が信じている価値がズレてきた気がしました。もちろんいい会社でしたし、嫌なところはなかった。好きにやらせてもらって、いろんな人ともつながりをつくれて、なんの文句もなかったんですが、やはり、自分の方向性とは違うなと。

ーどのあたりにズレを感じられたのでしょう

目の前の物件で収益をあげる、ということと、人と人をつなぐために実験的な場づくりをしていく、ということの整合性が、どうしても合わなくなってきました。数字的にも不透明ですし。それでも長期的にR&Dとして取り組みたいなら、未来のために自分がやるしかないな。と起業を決断しました。あとは今やっておいた方が、長い人生、後悔しないかなと思って。

半径100mの関係性を科学する

ーそれでGoldilocksを立ち上げられた。

ようやく人と人をつなぐ事業に集中できてきました。でも、最近は事業の数が増えてきて、そろそろ会社の方針をより明確に言語化するフェーズなのかな、と思い始めています。これから取り組むべき仕事や、集まってほしい仲間がより明確になればいいなと。

ーたとえば、どういう人と働きたいですか?

やっぱり「人と人のつながりを信じている人」ですかね。否定から入るんじゃなくて、人づきあいを前向きに捉える、あたたかい心を持っている人。ひとことでいうと「いい人」ってことになっちゃうんですが。

ータグラインにもなっている「半径100mの人と人をつなぐ」は、そんな仲間を集めたい、という思いも入っているんでしょうか。

最初は「人と人をつなぐ」だけだったんですが、やはり自分の得意技は、今まで培ってきた施設や場のデザインを軸にしたもの。だから、半径100mという「ご近所」を持ってきたんです。それは住居の場合もあれば、会社のように働く場の時もある。近くで活動する人同士がもっとコミュニケーションをとりあうだけで、幸福度の総量があがっていくんじゃないか。そんな想いに共感する人と働きたいですね。

ーそのための方法論は、どのように考えているんですか?

人と人のつながり、というと、ウェットな感情論に終始しそうですが、ある程度数値化したり、定量化したり、分析できるものと捉えています。「関係性を科学する」というか。もちろん、すべてがデジタルに表せるわけでもないので、その間のちょうどいいバランスを探り続けていきたいのですが。

ー「関係性」を可視化する研究というのは、今まで聞いたことのない視点でした

まだまだこれからですが、うまくモデルがつくれたら、一気に世界中に広がる可能性もあります。誰かが既にやっていたら、自分がやらなくてもよかったんですが、たまたま、この世界にはまだなかった。だからGoldilocksをつくったんです。

ー「半径100mの人と人のつながりを」じゃ言い足りてないと思う要素はありますか?個人的には、このまま残してもいい的確なコピーだと思うんですが。

「つながりたくない人なんて本当はいない」ってことでしょうか。別に誰とでも仲良くするべき、とか、たくさんつながろう、とか、そういう話じゃなくて、一人ひとりにとって、心地よいつながりがあるはずで、それを自由に選べるような社会をつくりたい。だけど、それはすぐにできることじゃない。事業としていきなり大きな収益があがるわけでもない。だからこそ「応援」してほしい。だって、みんながその方がいいって思えたら、その社会をつくることは不可能じゃないはずですから。

川路武プロフィール
1974年鹿児島生まれ。上智大学経済学部卒業後、1998年三井不動産入社。官・民・学が協業するまちづくりプロジェクト「柏の葉スマートシティ」や新しい働き方を提案する法人向けシェアオフィス「ワークスタイリング」を立ち上げる。2011年にはNPO法人「日本橋フレンド」を立ち上げ、次の100年を見据えた日本橋でのまちづくり活動を行う。2022年に24年勤めた三井不動産を退社し、新たに「半径100mの人と人をつなぐ」ことをミッションとした株式会社GOLDILOCKSを起業。
座右の銘は「それもあり」。

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