「長い目で見る」は正しいのか


競馬をやっているとよく耳にする「長い目で見る」という言葉。


自分自身も競馬を見る上でこの考え方はとても大切にしているが、いかなる場面においても重要かと言われるとそうではないかもしれない。




以前、競馬専門紙・馬サブローの弥永明郎さんが「皆、長い目で見てプラスになるかを考えるけど、競馬だけは同じレースって二度とない。勝てると思ったところで勝負しないと」と話していた。1レースあたり最大で18頭が出走し同着がなければ勝ち馬は1頭のみ、つまり負ける可能性の方が圧倒的に多い中で、自分が狙っている馬が勝てる機会は滅多に来ない。だからこそ、そのタイミングでしっかり勝負する必要がある。このように自分は解釈したが、全くもって同感である。

ただ、これは「博打的な事を言えば…」と前置きされた会話であり、文言からも分かるようにあくまでも馬券としての観点。別の場面では「レースはどっちが強い・弱いではなく、馬の資質を見抜けばいい」とも話しており、これはしっかり馬を見て、資質を見抜き、その馬が走ると思ったタイミングを待つ、といった意味が込められている。

ひとつひとつに対してどのように考えているかは本人にしか分かり得ないところだが、少なからず『馬券』に対しての考え方と『馬』を見る上での考え方は分別しているのだろうと、この2つの言葉から推測できる。




上記では弥永さんの言葉を例に挙げて話したが、このように競馬では「長い目で見る」ということが適切な場面とそうでない場面が存在し、これを重要視するかどうかは競馬への取り組み方次第で変わってくる。


自分としては、数多の競走馬それぞれに良さや特徴があり、その馬の特徴を一頭でも多く知っていきたいという目標がある。
特徴を推測するだけならパッと馬を見るだけでもできるが、それが正しいものかを確かめるには一瞬見ただけではおろか一戦見ただけでも分からない。そこには馬自身の実力や適性以外に、レースでの流れや馬の状態といったそのレース単体における要素も含まれるため、一戦だけでは断定できないのである。


ここで重要となってくるのが「長い目で見る」という作業。

弥永さんの言葉でいうところの『馬の資質を見抜く』ことは、一頭の馬と長く接していかなければ分からないということである。先に述べたように「この馬の特徴はこうだろう」と推測することは一瞬でできるが、馬もレースを重ねる毎に成長し変化するため一瞬だけで判断するのはあまり適切ではない。




これに関連する話で、種牡馬の特徴についての議論においても同様の事が言える。


「○○産駒は△△だ」と唱える際、産駒の成績から導き出す人もいれば産駒の馬体から導き出す人、種牡馬自身の現役時の特徴から導き出す人など様々存在するが、その提唱内容が果たして確かなものかどうか。

新種牡馬の産駒がデビューする度にその産駒の特徴や傾向が議論されがちだが、正直なところ一世代だけで特徴が分かるはずがない。『傾向』という言葉で濁す事はできるが、次世代でまるっきり違う特徴の産駒が出てきてしまった場合、その傾向は大幅にブレてしまう。
その行動が間違っているとは全く思わない。ただ、不確定要素があまりにも多すぎる故、発信や取扱には十分に注意しなければいけない部分である。


これらの観点から、自分の意見として「種牡馬の特徴は、その種牡馬が引退して(全世代を見て)からでないと分からない」という持論がある。

もちろん、競馬予想をする際や馬主(一口馬主)として馬を購入・出資する上でも、種牡馬の現役時にある程度の予測を立てて話さないと意味が無いことは重々承知している。
ただ、ここでは『予測』と『断定』という大きな違いがあり、「○○産駒は△△だ」というのはあくまでも『予測』として発信しなければいけないということ。その発信の仕方にもセンスが問われてくるため、自分としては種牡馬の特徴は引退後に判断するのが適切だと捉えている。





このように、競走馬にフォーカスをあてて物事を考え、発信する際は、一瞬ではなく長期的に見ていく必要があり、いわゆる“点ではなく線で捉える”ことが重要。

そして今回のテーマである「長い目で見る」というのは場面によって使い分ける必要があり、そもそもその場面がどういう状況であるのかを正しく分析するのが大前提である。



もっと言うと、自分が競馬に対して一番に考えている事は何か。自己分析をした上で「長い目で見る」ことが自分にとって必要なのか否かを決めることが大切だ。




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