堕とされた神ニンジャ -目は口ほどに真実を言う-
ニンジャとは何か
「ニンジャとは平安時代の日本をカラテによって支配した半神的存在である。」
これを読まれる多くの方はまず思い浮かべる言葉だろう。この意味について有識者が今も様々なアプローチをして研究しているが、クラブイベント H.M.C.5「踊るニンジャ学会」にてししジニー氏が発表した論文「忍者はニンジャか」でニンジャを定義づけるものとはカタナのような目であるという興味深い研究結果が発表された。
目とは文化人類学的に非常に重要なファクターである。本書では目の持つ力とは何か、カタナのような目がニンジャなら何を神話に残してたのかについて説明していきたい。
支配者としての目
古代において神は世界の支配者であった。支配するには人、物、土地を全て把握しなければならない、把握するには、そう見る必要があるのである。古代エジプトでは常に空に浮かぶ太陽と月が支配の象徴であるホルス神の目であると考えた。ホルスの目をシンボル化した画像を見てみよう。
お分かりだろうか。カタナのような目である。そしてホルスの目にはラーの目という概念があり殺戮と破壊をもたら力がある。これはニンジャの持つ残虐性を表していると推測され、ニンジャはエジプトで恐怖と支配の象徴とされていたという事がわかるだろう。
超越者としての目
神は人を越えた存在である。それには大きな力がなければならない。眼力というだけあって目は力である。暴力を使わなくても目で相手を威嚇させたり威圧する事ができる。特にインド文化では超越者の象徴として目を重視する。例えば東南アジアの舞踏劇では神を演じる際は目を強調する事で人とは違う存在だとアピールする。神獣バロンを見てみよう。
カタナのような目をしていない。ニンジャではないのか?ちょっとまって欲しい。こういう目をどこかで見た事はないだろうか?
そう、ナラクニンジャはカタナのような目をしていない。ナラクはニンジャなのでこれもまたニンジャの目なのである。とはいってもナラクは特殊な存在であるから一般的なニンジャはカタナのよう目であると考えて問題ないだろう。話を戻してもう一つ舞踏劇ではないがインドの代表的な神シヴァも見てみよう。
これもカタナのような目をしていないが眉間を見てほしい。眉間には第三の目がある。第三の目は細長くするどくカタナのような目をしておりニンジャの力を秘めている。インドでは俗世に無い物、見えないものを重視する。カラテは王族でも発揮されるという事がバーフバリからわかるの事からニンジャセンスやナラクのような概念存在を重視したのではないかと推測される。
知識者としての目
見聞という言葉があるように、知識を得るには見たり聞いたりしないといけない。目は知識を得るための力を持っているのである。特に片目を常世に送るのは神の世界に近づく為に必要な行為とされている。サイクロプスが単眼なのは鍛冶技術を持っている為であるし、前述したホルス神も片目を捧げるという逸話があるのだがやはり有名なのは片目を捧げて魔術を得たオーディンだろう
きわどい。カタナのような目をしているのかそもそもどっちが捧げたのかよくわからないし特に目について記載がないのが実情である。だがもう一度思い出してみよう。これを。
ニンジャスレイヤーはナラクに体を渡す=常世に送る事でニンジャに対する知識や力を得ているのである。
最後に
このように目は人類の文化史上、大きな力の象徴であったという事がわかったかとおもわれる。そしてその多くがカタナのような目をしているかナラクのように見開いた目をしていた事からもニンジャとの関連性が考えられ、さらなる研究が望まれるといえるだろう。
尚、筆者はニンジャは古代では神と同一視していたのだが、時代を経るごとに神性を失っていき平安時代に神の座から完全に追放されたのではと考えている。これについては長くなるため後日、説明するが西洋の聖書に出てくるヘビとはニンジャではないかと考えている。ナラク・ニンジャのように大きく目は日本では蛇の目と呼ばれているように共通性が見られるところが多くみられるのである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?