「余命3か月」と宣告されてから2週間で母が他界した経緯等について

昨年6月に膵臓がん(ステージⅡ)の診断を受け闘病中だった母が、4月上旬に「余命3か月」と宣告されてから約2週間で急変して他界してしまったので気持ちの整理も兼ねて発覚から死亡までの経緯を書きました。

大事なことは

・終活はお早めに(大事なことは書面に残す、話し合いは早めに行う)

・自分の心身のケアも大事、ちゃんと休んで遊ぶ

・終活はお早めに(大事なことなので2回)

です、以下時系列

①令和2年3月 便の色に異常、黄疸が出る、持病で長年診察を受けている病院で相談する→大至急精密検査を受けるように言われる。母は元々肝臓が悪かったので、母も私もあまり危機感なく「便の色おかしいのはまずいよ、早く病院行きなよ」「今度受診したとき聞いてみる」程度、この時点でがんを疑うべきだった。

②4月 検査に行ったところ即入院、胆管のつまりを解消してもらい体調回復するも「膵臓に影」。病院から説明を受け何も手につかず2~3時間部屋をうろつく、朝4時にうなされて起きる、この時に自分のメンタルケアをしっかりするように決意する。


③5月 細胞を採取して検査するもがんと確定診断できず6月に再検査。特定されず「もしかして?」と思うが、母(病院勤務経験あり)は血液検査等の値から膵臓がんと確信。


④6月 間違いであった欲しかったが膵臓がん(ステージⅡ切除境界線)と確定、抗がん剤治療で腫瘍を小さくしてから外科手術(約10時間)を行い根治を目指すことに。家族で支えて根治を目指す。

⑤7月 脳梗塞(軽度)発症、抗がん剤治療中断、9月末予定だった手術が延期に。実家で過ごしているときに呂律が回らなくなったので、兄が速やかに病院に連れていき軽度で済む、「ぱんだのおたから」が言えなくなると要注意だそうです。

⑥8月 上旬、体内にステントを入れているため胆管炎を起こしやすく背部痛がひどくなり緊急入院、胆管炎の治療を行う。退院するも下旬に第二腰椎圧迫骨折で整形外科に入院。だいたい1か月に1回は高熱出してステント交換していました、そのたびに絶食でどんどん痩せていく→体力・抵抗力定価の悪循環。

⑦9月 骨折治療を行いながら抗がん剤治療、12月末の手術を目指す。この時点であまり捗らず嫌な予感がするも気持ちを切り替える。

⑧10、11月 骨折のリハビリを行いながら抗がん剤治療、体重が30kg台になるが食事はちゃんと取れている。

⑨12月 骨折のリハビリを行いながら抗がん剤治療を行うも、がんが血管に浸潤したためか効き目が悪く、血管に浸潤したがんを小さくするため放射線治療+内服の抗がん剤治療を行ってから手術を令和3年3月に行うことに。抗がん剤治療の副作用で弱り続ける母を見ていると嫌な予感は増すばかり。

⑩令和3年1月 年末年始は実家で過ごす、このときでも食事はある程度取れていた。下旬に入院し放射線治療開始

⑪2月 敗血症でICUに入り死にかける、母曰く「2月の記憶はほとんどない」とのこと

⑫3月 一命はとりとめたものの、体力的、がんの進行状況的に治療不可に。外科手術を行ったところで再発の可能性も高い、抗がん剤をこれ以上使うと身体がもたないと医師から言われる。緩和ケアの準備を進める

⑬4月 上旬「余命3か月」と宣告される。緩和ケアのため転院しようとした矢先に急変、夜中から激しい痛みに襲われ今までの痛み止めも効かず。原因は成長したがんが腸壁を食い破ったと思われると医師から説明を受ける。本来であれば開腹手術を行わないと命に関わるが、がんの部分が破れている場合、縫合もできないので手術の意味がなく体力を消耗するだけとのこと。結局なにも治療行為ができないので死ぬまで強めの痛み止めを使うしかない状態に。その後は兄と交代で50時間ほど母の様子を見守っていましたが、治癒の希望が持てずに緩やかに死に向かっていく母を見続けるのは心身ともにとてもつらい時間でした。それでも痛み止めの副作用で眠る前に2時間ほど色々と話せたのは幸運だと思います。最後の方は呼びかけにも反応しなくなり静かに呼吸が止まりました。医師から延命措置についてECMOを使用するかどうか尋ねられ、悩みましたが使用しませんでした。というのもECMOを使用したところでがんが治るわけでもなく、苦しみを長引かせて身体を傷つけるだけだと判断したからです。この点医師からも「心情的にECMOを希望される方が多いのですが、使用を後悔する方も多いです」と言われておりました。

⑭その後 医師による死体検案も済み、病理解剖は希望せず(死因は明らかだったので)、地元の葬儀屋に遺体を引き取りにきてもらい遺体とともに実家へ。枕経を上げてもらい、親族への連絡、通夜葬儀の打ち合わせと準備を済ませて3日振りのまともな睡眠をとる。夢枕に母が立つ…なんてこともなく麻雀の夢を見ました、カンの度にドラが4つずつ増えてドラ12まで伸びました。なぜだ。

親族への連絡も心に負担の掛かる作業でした、母の意向で親族にもがんの話をあまりしていなかったので、電話口で泣かれるし「どうして!?」って言われしで大変でした。泣きたいのはこちらもです、なんとか堪えました。次男ですが耐えました。

通夜・葬儀も同様に理由を尋ねられ二の句を告げるのがつらいときもありました。何度も何度も母の闘病経過をお話しするのはつらかった。

時節柄と人手の足りなさを考慮して随時焼香・家族葬という形式にしましたが、母と付き合いのあった方が何名か通夜・葬儀に参加しようとして対応に苦慮しました。故人を偲んでいただけるお気持ちは大変ありがたいが随時焼香・家族葬の意味をどうかご理解いただきたい。

母が亡くなってから、自分の精神もまともではなかったようで、納棺するまで母が呼吸しているように見えたし病院から自宅に運ぶ途中の母の手は暖かいように感じました。そんなはずないのにね。

長らく北海道在住ですが火葬が終わる直前→吹雪、火葬終了→晴れ、火葬場出発→霰と珍しい天気でした。

初七日も終わり実家の整理等していましたが、私が整理整頓が苦手なのは祖母の代から受け継がれてきた血統だと思いました。不用品の整理はあらかじめやっておこうね。

長々だらだらと書きましたが、連絡やら手続きやらでものすごーく困っているので、家族に何かあったときのために

・人間関係(死後、どの範囲で連絡が必要か)

・整理整頓(生前に整理しておかないと捨てづらいものが多い)

・金銭関係(借財、保険、資産、口座etc…)

・実家(処分or残す)

は把握しておくべきだなと強く思いました。

以下雑感

割と早い段階で浮かんでいた疑問で、母の葬儀関係の喪主は私の兄がつとめましたが本来は叔父(母の兄)では…?

自分でも思っていたが通夜のときに言われる「孫の顔見せてやれなかったのが残念だなあ」、耳と胸が痛い、連絡したときも「しっかりせえよ!」って言うし昭和を生きてきた人はド直球だね、嫌いではない。泣かれるよりも「頑張れ!」って背中叩かれた方が良いときもある。

母から「あたたかな家庭を築いて幸せに暮らしてほしい」と遺言めいたことを言われたのでそのうち婚活も頑張ろうかなあと思います。

4月20日頃から時間が止まっているような感じで、情報が摂取できておらず、ゲームのデイリーとサークルの靴投げしかやれてなかったけどだいぶ回復してきたのでぼちぼち色々なところに顔出します。いつの間にかゴルシウィークが始まっていたぜ。


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