「作中作」と本編とのハーモニー~『サマーフィルムにのって』感想

眩しく微笑ましい、青春映画の新たな金字塔

『サマーフィルムにのって』という映画をご存じだろうか。
現在公開中の青春映画である。
ストーリーについてはぜひ予告動画をご覧になってもらいたい。


勝新を敬愛する高校3年生のハダシ。
キラキラ恋愛映画ばかりの映画部では、撮りたい時代劇を作れずにくすぶっていた。
そんなある日、彼女の前に現れたのは武士役にぴったりな凛太郎。
すぐさま個性豊かな仲間を集め出したハダシは、
「打倒ラブコメ!」を掲げ文化祭でのゲリラ上映を目指すことに。
青春全てをかけた映画作りの中で、ハダシは凛太郎へほのかな恋心を抱き始めるが、
彼には未来からやってきたタイムトラベラーだという秘密があった――。
(公式HPより引用)


夏がもう少しで終わろうかというころ、本当に滑り込みで出会うことができた映画だ。

ストーリーが、キャラクターが、恋愛とSFと時代劇を全部詰め込んだ主人公たちの「青春」が、すべてが眩しく微笑ましい。
多くのシーンを笑顔で見遣り、けれど終盤を含む一部のシーンでは涙をこらえつつ彼女たちの物語を看取った。

コミカルで軽快な青春のシーンの数々と、そのひとつひとつの中に見える彼女たちの人生が発する輝き。映画というフィクションでしか許されない設定とストーリー。そして随所に詰め込まれた「映画」への愛情とこだわり。これらは他の媒体で描けるものではなく、紛れもなく映画として生きるために生まれてきた作品であると断ずることができる。
この作品に出会えたことは、本当に僥倖であったと思う。本当に有難いことだ。

眩しく輝く一瞬の青春のきらめき、描くものと描かないものの取捨選択を割り切った演出、ファスト映画への痛烈な皮肉、あらゆる創作への愛のこもったメッセージなど、この映画について語りたいことは山ほどある。

しかしそれらについてすべて書き殴ることはここでは避ける。特に感動した点、表題にも付けた「作中作」の扱い方について書いてみようと思う。

※以下、この映画のネタバレが含まれます。閲覧にはご注意ください。


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「作中作」の難しさ

本作のストーリーの大きな軸の一つが、「自主製作映画『武士の青春』を撮影、上映すること」である。

つまり、『武士の青春』という作品は『サマーフィルムにのって』という作品の中に登場する作品、いわゆる「作中作」であるわけだ。

この「作中作」という要素は他の作品にもしばしば見られる割とメジャーな要素ではあるわけだが、これをうまく成立させるのは至難の業であると私は思っている。

もちろん、『館』シリーズの中でも個人的に特にお気に入りな『迷路館の殺人』や、名作と名高い『バクマン。』(ちゃんと読んだことはないのだけど)など、成功例もある。
しかし、作中作、特に「作中で名作と称される作中作」については、作中の人間にはそのすごさが伝わっているのだろうが、『作外』にいる我々視聴者にその作中作が名作たる理由を伝えることは非常に難しい

作中の登場人物がいかに「すごい!」「こんな作品は見たことがない!」と称賛しても、それを作品の外、作外から見ている私たちに同じ熱量が伝わってくることはない。理由はシンプルで、作外の我々はその作品を観たことがないからだ。

これを正面から解決しようとすると、作者は「読者に読ませる作品」と「作中の作品」の二つを描かなければいけないことになり、その両方を名作として描くのは技術的にも難しいだろうし、作品の軸がブレたりといったこともあって、そこにカロリーを割くことはされないのだろうと想像する。

つまり、「『武士の青春』の撮影を楽しむハダシたち」、すなわち『サマーフィルムにのって』を観て、その光景を尊いと、素晴らしいと感じることはできても、「『武士の青春』そのもの」を名作と感じることは、作外にいる我々にはできない(非常に難しい)ということだ。

これは、『武士の青春』と向き合い続ける作中のハダシたち三隈高校の面々に対して、作外の我々視聴者との間に温度差が生じることを意味する。そしてそれは特にラストシーン、肝心の文化祭での上映シーンにおいて顕著になってしまう。


……普通なら。

この「作中作により生じる観客との温度差」に対する根本的かつ画期的な解決策を示しているのが本作なのである。


『武士の青春』が『サマーフィルムにのって』に溶け合う瞬間

 
ラストシーン、文化祭での『武士の青春』の上映会。
ここまでは、『武士の青春』は視聴者の観ている『サマーフィルムにのって』の作中作であり、直接的に視聴者が目にしているものではなかった。『武士の青春』を作っている・観ているキャラクターたちを観ているのが私たち視聴者の視点だ。

『武士の青春』は確かに魅力的な映画に見えるのだが、しかしこれはハダシたちの作る物語なのであって、視聴者たちが彼女たちと同じ熱量を持つことはできない。

私たちが観ている『サマーフィルムにのって』は松本壮史監督が作ったものである。松本監督は私たちと同じ次元にいて、場所は違えど同じ空間と時間に生きている。ハダシの価値観を借りれば、映画は時間を超えて人と人を繋ぐものであるから、同じ「時間」にいるかどうかは厳密には関係ないのだが、肝心なのは同じ「次元」にいるということだ。

「製作者が同じ次元にいること」というのが、視聴者が作品に没入できる重要な条件なのではないかと思う。もちろん、作中作で人を魅了できるものがあるのだからこの条件は必須ではないのだが、ほぼ必須と言っていいほど重要な条件であることは確かだ。

では、視聴者が『武士の青春』に感情移入できない問題を解決するにはどうすればいいか。『武士の青春』の次元を一つ上げて、視聴者に近づければいいのである。

そんなことができるのか?この映画ではどうしているのか?
それを示しているのがラストシーンなのである。


文化祭の上映会は、『武士の青春』のラストシーンである猪太郎と子之助の決闘シーンまではつつがなく進む。
「斬らない」ことを選んだハダシの脚本に沿って終わりに進んでいく『武士の青春』。猪太郎が子之助の手を取ろうとした瞬間、スクリーンの映像が突然止まる。

「さよならなんて言ってやらない」

たとえ美しくなくても「斬る」エンディングを選んだハダシは、なんと文化祭の上映会場で、『武士の青春』のラストシーンをゲリラ撮影することを告げる。

ここだ。

この瞬間、『サマーフィルムにのって』と、ハダシたちが撮影していた『武士の青春』の二つの映画が一つになる
私たち観客の観ていた、感情移入していた映画に、そうでなかった作中作の映画が溶け合う。私たちが目の当たりにしているのは、撮影されている『武士の青春』のラストシーンであり、同時に『サマーフィルムにのって』のラストシーンでもあるわけだ。

「猪太郎と子之助が最後の決闘に臨む」という『武士の青春』のクライマックスと、「ハダシが上映を止めてゲリラ撮影を始める」「凛太郎とハダシが映画と互いへの思いをぶつけあう」という『サマーフィルムにのって』のクライマックスを同時に味わうことができるようになっている。
これは、非常に合理的でありながら画期的で、そして何より最高にアツくなれる名シーンだ。

これまでは、『武士の青春』の脚本を誰がいくら褒めたところで、作外の私たちには響かなかった。
しかし、このラストシーンに至って、「これ、傑作だよ」というビート板の言葉に私たちは心の底から頷くことができるのである。

私の知る限り、作中作という非常に難しい題材を取り扱うことへの完璧に近い回答なのではないだろうかと思う。


サマーフィルムから現実へ

しかし、この映画はここで終わらない。
ハダシと凛太郎が斬り結ぶ刹那、画面は暗転し『サマーフィルムにのって』の文字がスクリーンに踊る。

ここで、私たちは『サマーフィルムにのって』という「映画」を観ていたのだということを残酷なほど痛烈に認識させられる
この映画には、「凛太郎が未来へ帰るシーン」も「ハダシが決意を新たに映画製作に邁進する姿」も描かれない。これは『サマーフィルムにのって』という「映画」なのであって、彼らの人生を覗き見ているわけではない。

監督という、私たちと同じ次元に生きている人間が作った創作物なのだ。

それを認識することで、私たちは現実へと引き戻される。没入していた映画のワンシーンから、三隈高校の体育館から、劇場の座席へと意識が無理やり戻されるのだ。

それは、一瞬の寂しさを伴うものだ。もうハダシや凛太郎の人生を観ることはできないのか。彼らはどうやって生きていくのだろう。映画は本当になくならないのだろうか。ハダシと凛太郎はもう出会うことはないのだろうか。
そのすべてを、私たちはもう確かめることができない。

けれどしばらくすると、エンドロールが終わり明るくなった劇場で、席を立つ観客たちに交じって歩きながら私たちは気づくことができる。

この映画は、映画という創作に惜しみない愛を捧げる作品であると。
青春も時代劇もSFも、「毒され青春キラキラムービー」も、全ての映画に、創作に賛辞を贈る作品であると。

そうしてハダシたちの送る青春だけでなく、この現実の世に溢れる創作に思いを馳せることに至って、この『サマーフィルムにのって』は、私にとって本当のエンディングを迎えたと感じることができた。

その気持ちをもって、私はまた新しい創作に、作品に出会うために前を向くことができる。過去も未来も、この世に生きるハダシたちが生み出すものたちに、私たちの心を震わせる創作に、また出会えることを祈って。


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