ボルタンスキーいってきた!

国立新美術館のクリスチャン・ボルタンスキーの展覧会に行ってきた。

【ネタバレ注意!!】

いい展示だたなぁ。

なんとなく思ったことを書いていこうと思う。


最初の展示作品は映像で、「咳をする男」と「なめる男」だった。

2分28秒間、ひとりぼっちの男が血を吐き続ける。センシティブだった。
繰り返される吐血に、圧倒されてしまう。
その後に2分間、仮面を被った男が女性の人形を舐めている姿が映し出される。

どちらも自分の普段持っている価値観が正しいのかどうかわからなくなり、具合がわるくなる。

まずはじめに、この映像作品で鑑賞者を殴ってしまって、頭をまっさらにしてしまう意図を感じた。


また入場するとき、新聞を渡される。
作品リストと解説だ。

この新聞が非常にうまくできており、
8面構成で、作品リストになっているのだが、その真ん中の4、5面には大きな写真が一枚あるだけで解説も詳細もなかった。
解説を見るために新聞を一度真ん中から開いたあと、もう一度閉じてめくる動作があり、ものすごく新聞を読む姿がリアルに(自然に)なる。
その姿は異常な展示空間とマッチし、雰囲気を助長していた。


この時点で、鑑賞者はボルタンスキーの展示作品の一部になっていた。

使いづらくはあるが、鑑賞者を展示空間の一部にするという目的は達成されていて、そういう意味ではデザインされていた。


その後は古い肖像の写真や、ボルタンスキーの友人の家族写真、自分自身の幼少期から直近までのポートレートをつかった作品が、主に展開される。
多くの写真が古く輪郭がはっきりとせず、ぼんやりと伝わってくる印象に、その人の人生や性格を妄想してしまい、人がこれほどまでに肖像に影響されるのかと、驚いた。

また最近自分で制作中だったアート作品も肖像をつかったもので、ウォーホルのマリリンにインスパイアされてハイブリッドイメージを用いてつくりはじめたものだったのだが、自分がやるべきことはウォーホルの先をつくるのではなく、ボルタンスキーの探求しているものの、自分の解釈とその流れにのった自分なりの先のものをつくることのほうが、しっくりきている事に気付いた。ウォーホルを現代のツールでやったときに、ボルタンスキーのほうが近かったのだ。

また展示空間のほぼ真ん中に、紐でできたカーテンにボルタンスキーの7歳から65歳までのイメージが投影される作品があり、それを通り抜けなければ、先の展示に進めなくなっている。

このカーテンを次々と潜っていく人々は頭を下げ、まるでボルタンスキーに入信する儀式かのように見えた。
それを見たあとに自らカーテンを潜っていくのには、彼に「覚悟を決めろ」と言われているような気がして、とても勇気が必要で重々しかった。

ほとんどの展示は、基本的には死についてのテーマをだったと思う。(まぁそこは書かなくてもいいかな、いっぱい記事あるし)

また展示空間の壁には縦の細いスリットがたまにあり、自分が建築を学んでいることもあるからか、とても魅力的に思えた。

そのスリットから向こう側をのぞくと、鑑賞者が立っていて、スリットのすぐ横に作品があるのだと気づかされる。
そこでまた、鑑賞者はボルタンスキーの作品の一部になっているのだ。

一貫して、この展示では鑑賞者を展示の一部、世界観の一部にしてしまおうとしていた。

彼の思った通りに、僕は心を動かされた。


よく、美術を志していると「よくわからない」や「気持ち悪い」と言われることがある。
まじめにアートをしてる人ほど、そうだ。

だが安心してよかった。ボルタンスキーほど全力でやれば、誰も何も言わない。

気持ち悪いからやめな、といわれても「俺の高尚な思考がなぜわからん!」とクオリティを上げ続ければ、ある時突然、認めてくれるだろう。


まぁそんなのどうでもいいけど。


アートは極めて私的な表現の追求だ、だけどその中にも目的があるときはデザインするし、必要なときは建築もする。


時間があんまりないから、テキトーにこのまま終わろう。

ボルタンスキー、きてくれてありがとう!

サポートしていただけると喜びます。