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中原中也の埋もれた名作詩を読み直す。その47/夏の夜の博覧会はかなしからずや


1936年(昭和11年)11月10日。
長男の文也が死去しました。

この日の日記に
詩人は
午前九時二十分文也逝去
ひのえ申一白おさん大安翼文空童子
――とだけ記します。

この日より前に日記が記されたのは
11月4日で、
坊やの胃は相変わらずわるく、終日むづかる。明日頃はなおるであろう。
――と書いたばかりでした。

12日には
詩人が喪主兼世話役になった葬儀が行われ
日記には寄せられた香典のメモが書かれますが
以後1か月は記述がなく
12月12日に
「文也の一生」の題で
死後初めてになる追悼の記事が
書かれるのです。

昭和九年(1934)八月 春よりの孝子の眼病の大体癒ったによって帰省。
九月末小生一人上京。文也九月中に生れる予定なりしかば、待っていたりしも生れぬので小生一人上京。十月十八日生れたりとの電報をうく。
――と毛筆で書き起こされる
2年前の文也誕生から
その後の成長の過程が
「文也の一生」には
思い出されるままに
ありありと書き綴られ
終わるところを知らない勢いがあるのですが、
昭和11年7月末日の
万国博覧会行きの内容を書いているところで
プツンと打ち切られ
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」と
タイトルのある詩が
書き継がれる形になりました。

夏の夜の博覧会はかなしからずや
 
夏の夜の、博覧会は、哀しからずや
雨ちょと降りて、やがてもあがりぬ
夏の夜の、博覧会は、哀しからずや

女房買物をなす間、かなしからずや
象の前に余と坊やとはいぬ
二人蹲(しゃが)んでいぬ、かなしからずや、やがて女房きぬ

三人博覧会を出でぬかなしからずや
不忍(しのばず)ノ池の前に立ちぬ、坊や眺めてありぬ

そは坊やの見し、水の中にて最も大なるものなりきかなしからずや、
髪毛風に吹かれつ
見てありぬ、見てありぬ、
それより手を引きて歩きて
広小路に出でぬ、かなしからずや

広小路にて玩具を買いぬ、兎の玩具かなしからずや

   2

その日博覧会入りしばかりの刻(とき)は
なお明るく、昼の明(あかり)ありぬ、

われら三人(みたり)飛行機にのりぬ
例の廻旋する飛行機にのりぬ

飛行機の夕空にめぐれば、
四囲の燈光また夕空にめぐりぬ

夕空は、紺青(こんじょう)の色なりき
燈光は、貝釦(かいボタン)の色なりき

その時よ、坊や見てありぬ
その時よ、めぐる釦を
その時よ、坊やみてありぬ
その時よ、紺青の空!

   (一九三六・一二・二四)

親子3人が博覧会で見たサーカスの思い出を
日記として叙述しているうちに
イメージがふくらんだか
感情が高ぶったか
ほかの理由によるものか
詩の言語として表出する必要に迫られ
1篇の詩の制作に至ったもののようです。

「夏の夜の博覧会はかなしからずや」は
未発表詩篇/草稿詩篇(1933年~1936年)の
末尾にあります。

詩人には
詩に置き換えるほかに
かなしみを癒す術はなく
文也死去後1か月の間
僧侶に毎日の読経を依頼し
自分は般若心経をそらんじていました。

「文也の一生」の終わりの部分を
読んでおきましょう。
全体の6分の1ほどに相当するでしょうか。

春暖き日坊やと二人で小沢を番衆会館に訪ね、金魚を買ってやる。同じ頃動物園にゆき、入園した時森にとんできた烏を坊や「ニヤーニヤー」と呼ぶ。大きい象はなんとも分らぬらしく子供の象をみて「ニヤーニヤー」といふ。豹をみても鶴をみても「ニヤーニヤー」なり。やはりその頃昭和館にて猛獣狩をみす。一心にみる。六月頃四谷キネマに夕より淳夫君と坊やをつれてゆく。ねむさうなればおせんべいをたべさせながらみる。七月淳夫君他へ下宿す。八月頃靴を買ひに坊やと二人で新宿を歩く。春頃親子三人にて夜店をみしこともありき。八月初め神楽坂に三人にてゆく。七月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる。

上野の夜店をみる。
――と書いたところで
「文也の一生」は途切れるように終わります。

「夏の夜の博覧会はかなしからずや」は
日記帳にではなく
原稿用紙に「文也の一生」と同じ毛筆で書かれました。

この二つの記述は
連続した時間の中にあることを物語ります。


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