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中原中也の埋もれた名作詩を読み直す。その45/子守唄よ



「子守唄よ」は
「新女苑」の昭和12年(1937年)7月増大号に発表された作品。
同号は同年7月1日付けの発行です。
制作(推定)は同年(1937年)5月中旬。

同じころ
「四季」7月号に
「蛙声」を発表しています。

「子守唄よ」は
自選詩集「在りし日の歌」の
最終部に置かれた「蛙声」と
同じころに制作された作品ということになります。

子守唄よ

母親はひと晩じゅう、子守唄(こもりうた)をうたう
母親はひと晩じゅう、子守唄をうたう
然(しか)しその声は、どうなるのだろう?
たしかにその声は、海越えてゆくだろう?
暗い海を、船もいる夜の海を
そして、その声を聴届(ききとど)けるのは誰だろう?
それは誰か、いるにはいると思うけれど
しかしその声は、途中で消えはしないだろうか?
たとえ浪は荒くはなくともたとえ風はひどくはなくとも
その声は、途中で消えはしないだろうか?

母親はひと晩じゅう、子守唄をうたう
母親はひと晩じゅう、子守唄をうたう
淋しい人の世の中に、それを聴くのは誰だろう?
淋しい人の世の中に、それを聴くのは誰だろう?

「新女苑」は
若い女性をターゲットにした雑誌で
中原中也は
すでに昭和12年2月号に
「月夜の浜辺」を発表しています。

この雑誌への発表を仲立ちしたのが
小林秀雄か河上徹太郎と推定されています。

「月夜の浜辺」は
「在りし日の歌」にも収録され
「月夜の晩に、ボタンが一つ
波打ち際に、落ちていた。」の
歌いだしが馴染みやすいためか
広く一般に知られるようになるのですが
「新女苑」の読者向けに作られたことが
ありありと伝わってきますし
この「子守唄よ」も
女性の読者が意識されたことは明らかです。

中原中也の詩が
女性ファンに多く支持されるのは
この詩のように
女性の心へ向けられた内容を持つ作品が
随所に散りばめられているからだと
あらためて気づかされる作品ですが……

「子守唄よ」は
母親が声を限りに一晩中歌う
子守唄の行方に
「?」を投げかけ

暗い、船もいる
夜の海を越えて行くのだろうけれど
いったいだれがそれを聴き届けるのか
だれかがいるにはいるのだろうけれど
途中で消えてしまわないだろうか
波が荒くはなくとも
風はひどくなくとも
途中で消えてしまわないだろうか。

きょうも母親は
一晩中声を限りに
子守唄を唄っている
淋しい世の中で
それを聴くのは誰でしょう。

ああ、ぼくのあの子は
もうこの世にいないのに
だれが母親の子守唄を
聴くのでしょうかと
詩人は
母親に成り変って
子守唄を歌うのです。

その歌が
夜の海を渡っていく間に
途中で消えてなくなりはしないかと
心配しながら
今日も眠れ眠れと
静かに歌うのです。

子守唄よ、と
子守唄そのものに呼びかけるのは
そのためです。

詩人が歌う歌=詩への思いをも
子守唄に込めているのです。


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