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【ヴェルディJy編】失敗から何を学ぶか

もしかしたらこれまでのnoteを読んでくれている方の中には、順風満帆な小学生時代を過ごしてきたんだなと感じた方もいたのではないかと思います。実際にヴェルディでの指導者の方との出会いや刺激的な環境は、僕の成長に大きな影響を与えてくれましたし、何よりプロになるという目標を学生時代の大きなテーマとして自身の中に明確に据えることができたことは、その後の人生の原動力となり、あらゆる局面で支えとなりました。それについてはまた別の機会で触れるとして今回は、自分にとって、また当時のチームメイト達にとっても最終的には恐らく苦い思い出として残っているであろうジュニアユースでの3年間について書きます。

ただひたすらにサッカーが上手くなることしか考えることができずに最終学年では継続的に上手くいかない時期が続いたこと、その理由を振り返ってみようと思います。

ジュニアユース時代の平日の生活リズム

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主要大会と戦績

当時のジュニアユース年代の主要大会として、①シーズンを通して戦うリーグ戦と、②夏のクラブユース選手権、③冬の高円宮杯という二つの全国大会がありました。基本的にリーグ戦は各学年毎のチーム、2つの全国大会は学年問わずAチームと呼ばれる三学年の選抜チームで挑む形でした。それに加えて2年生ではクラブチームと中体連の学校が世界大会への切符を賭けて戦うナイキカップという全国大会がありました。


1年、ナイキカップ優勝、(クラブユース、高円宮杯には帯同できず)
2年、ナイキカップ準優勝、クラブユース選手権準優勝、高円宮杯準優勝
3年、クラブユース選手権関東予選敗退、高円宮杯ベスト16敗退

自信と理想とのギャップ

ジュニアユースに入ると、特に先輩たちはクラブの育成方針であった一貫指導の下行われるコーチのトレーニングによってすでに多くの選手が共通のプレー基準を有していて、自分もそれに準じてプレーの良し悪しを判断できる環境がありました。僕は最高の環境の中でたくさんボールに触って、より多くのリアクションを得ることでチームメイトと切磋琢磨し、特に技術と判断の自信が深まりました。練習での努力が実を結び、1年次のナイキカップ決勝戦では2015シーズンから2年半アルビレックス新潟で共にプレーをした伊藤優汰選手率いる京都パープルサンガジュニアユースとの決勝戦で延長戦後半から途中出場しダメ押しゴールを決めることが出来ました。

その後はエリートプログラム(U13とU14の世代で、全国から学年で約20名ほどの選手を招集し、国内キャンプや海外遠征などを通じて将来の日本代表の育成に向けたJFAの取組)に招集されるようになり、全国の実力のある選手たちとプレーする機会にも恵まれ、年に数回行われる国内外での合宿に招集されることをスモールステップとして意識するようになりました。

2年次、自身の学年ではナイキカップで準優勝し、サイドバックにコンバートされた中でも大会ベスト11に選出され、基本的に帯同していた一つ上の学年ではチームとして二度日本一に迫った一方でチームを牽引するような活躍には及びませんでした。この頃ポジションが被っていた一学年先輩の小林祐希くん(ベルギー1部リーグのWaasland Beveren)や、ほとんどユースに帯同していて不在でしたが高木善朗くん(アルビレックス新潟)などの圧倒的な存在感を放っていた選手達との差は自覚していたのですが、人一倍負けず嫌いな性格だったので、素直に憧れや目標だという態度を表に出すことはしませんでした。一つ上の学年で主力になりきれないこと、あと一歩で日本一に届かない悔しさは、単純に練習にぶつける他なく、必死で練習に取り組んでいた時期で、自分に足りないものの見方や考え方にまだ気付けませんでした。

失敗の連続

最高学年となり、祐希くんや善朗くんとポジション争いをすることがなくなり、目に見える競争相手をなくしてしまったような感覚がある一方で、中島翔哉や前田直輝を初めとした後輩達も良い選手ばかりだったので、余裕全くありませんでした。今後は自分が目の前で見てきたようなチームを引っ張る圧倒的な存在になりたいという思いとそのギャップに苦しみ、出場機会を多く得られず難しい時期を過ごしてきたチームメイトの存在に意識を傾けることが出来ませんでした。

関東第9代表決定戦という敗者復活戦を翌日に控え(クラブユース選手権の関東予選で浦和レッズユースにまさかの敗戦を喫したため)、チームバスで前泊会場のホテルへ向かう車内でスカウティング映像を流していたのですが、観ていない選手がいたことを当時の西ケ谷隆之監督から指摘されました。その後ホテルで選手ミーティングを行った際に「サブ組の奴らがちゃんと観ていなかった」というレギュラー選手の発言によってチーム内の大きな亀裂が浮き彫りになりました。

サブ組という括られ方に納得のいかない様子の選手たちが日頃から募らせていた不満として、(「サブ組」と括ることもその一例だったのですが)リスペクトの欠如を口にした時、僕は軽い衝撃を受け、そんな不満を抱かせてしまっていたことに驚きを隠せませんでした。なぜならその一方で自分は、サブになることの多い選手たちの練習や試合への取組姿勢に物足りなさを感じていたからです。逆にそのような不満を持たれていたという事実。知らぬ間に自分たちでチームを弱くしていたこと。思い返してみるとそういった不満は練習の質に直結していて、プレーの要求を素直に受け入れてもらえなかったり、その場で口論になるような場面も多かったことに気付きました。

もう一度団結し直そうと話して臨んだ翌日のゲームはFC東京深川ジュニアユースに敗れ、関東第9代表の権利すら掴めず敗退、冬の高円宮杯でも決勝トーナメント一回戦敗退という不甲斐ない結果を最後に、ユースへ昇格する選手たちと昇格が叶わず高校サッカーへと進む選手たちとで別れることになりました。

失敗からの学び方

半数以上の選手がユースへ昇格できず責任を感じる部分がありました。当時の自分はなぜ自分やチーム全体を客観的に見て行動することができなかったのかと考えると、自分の理想像とのギャップに焦る気持ちと、矛盾するようですが、それまで自分が最前線に立って100%のパフォーマンスを発揮しなくても全国大会で優勝したり、決勝まで進めてしまうほど周りのレベルが高かったことで心のどこかに隙が出来てしまっていたのだと気付きました。そういった要素が合わさって、悪い状態にあるチームや自分の言動、チームメイトを客観視出来ないことに繋がったのだと思います。

一つ上の学年の、攻撃的な中心選手のチャレンジやアイデア豊富なプレーを他の選手達がサポートしつつ、さらに厚みを加える構図が機能していた要因は何よりも信頼関係だと思います。その上で選手達の役割を理解して整理する能力も秀逸でした。練習には誰よりも集中して厳しく取り組んでいる自負がありましたが、近くにあった一番のお手本から学んでいたのは、あくまで個人的なスキルやメンタルに過ぎず、常勝軍団の先輩たちに帯同していたことで心のどこかに甘えがあり、このチームが強い本当の理由を理解できていなかったのだと思います。

あの時自分の学年で大きな失敗をしなかったら、自身やチームを振り返って思考することはなかったかもしれません。この体験から「失敗も成果も自分事化して思考することで初めて再現性のある学びとなる」ことを身をもって感じることができ、結果として高校年代で自分自身やチームと向き合うことができたきっかけになりました。

長文になってしまいましたが最後まで読んで頂きありがとうございました。

次回は怪我とプロという目標の間で自問自答を繰り返したユースでの3年間について書きます。

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