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【ユース編①】揺るがない目標

パソコン水没のおかげでだいぶ間が空いてしまいました。ユース編と題してますが、今回は前編として自分にとって非常に大きな経験となった怪我に悩まされた日々ついてのnoteです。

自信満々のスタート

ジュニアユースの最終学年では、チームとしての一体感の重要性、その為に自分が如何にあるべきか考えることが出来ましたが、ユースに入りまた1番下に逆戻り。再び必死になって先輩達に追いつくための日々が始まりました。

最初の頃は、必死ながらに伸び伸びとプレーできました。練習で2つ上の先輩を股抜きした次のプレーで足の裏での汚いタックルで仕返しをされても、もう一回行こうって思ってる1年生でした。(性格が悪い)

とにかく先輩たちより良いプレーをする。ポジションを奪う。これまでのサッカー人生でひたすら繰り返してきた事に全力投球するだけでした。見えてる目標を追うことは、精神的にはそう難しいことではないんですよね。むしろとても健全な状態でした。

プリンスリーグ、クラブユース選手権、高円宮杯と試合に絡み続け、1年生の1月にはU-17日本代表に選出。メキシコで行われたコパ・チーバスで準優勝して帰国した時はそれまでのサッカー人生の中でも、心身共にとても充実度の高い状態であったと思います。

初めての大怪我

進級目前の3月、3年生が引退した新チームが始動。春からは絶対的なプレーでポジションを確立しなければいけない。コンディションも良く、自信とプレッシャーが良いバランスで共存していました。

一方でこの時期に変わったことは、目標とする先輩たちが高校生ながら既にトップチームの練習や練習試合に参加し、Jリーグにも出場し始めていた事で、目標までの時間の無さに初めて"危機感"を覚えるようになったことです。

初めての大怪我はそんな絶妙なタイミングで待ち受けていました。ショックはあったものの、骨折とはいえオペを受ければ3ヶ月程度で復帰できるし基本的にはそれで治るものだから大丈夫だろう、しっかり治してまた頑張ろう。その程度にしか考えていませんでした。

手術後1ヶ月は、同じタイミングで足の手術を受け俳優になった某チームメイトと小田急線の読売ランド駅から練習場のあるよみうりランドまでの遊歩道を松葉杖をつきながら30分歩き、体幹トレーニングなどできる範囲のリハビリをする生活。徐々に同級生や先輩たちの活躍にムズムズするような感覚を覚えるようになりました。

それからのリハビリ期間中は内心焦れまくっていて、もう痛くないから定期検診のレントゲンを早く撮りたい、リハビリのペースを上げたい、と頭の中はそんなことばかりでしたが、怪我自体は順調に回復し復帰したのが高校2年生の7月頃。

4ヶ月近くもプレーできなかったのは初めての経験だった上に、感覚を重視しているプレーヤーとしては復帰後の身体の変化には控えめに言って絶望しました。メスを入れるというのはこういうことなのかと。

手術が原因なのか、ブランクのせいかその時は判別出来ませんでしたがとにかく身体が思うように動かない。その夏、自分のプレーに納得できないままクラブユース選手権で日本一の座を掴み、貢献度、達成感、何をとっても満足のない日本一を経験しました。

二度目の大怪我

復帰以降、思うようなプレーができなくなっていたことで危機感が募る中、2年生の冬前から高校のカリキュラム上早く帰れる日を使って練習前の自主トレを始めました。

みんなより1時間ほど早く行って軽く体幹トレーニングをしてからひたすらシュート練習をするというルーティンで、練習前に50本位のシュートを打っていたと思います。

その甲斐もあって、徐々にプレーや感覚に自信を取り戻しつつあり、冬にはU18日本代表候補に選出。U23のオリンピックに向けたサバイバルの始まりです。当然意気込んで臨んだ初回のキャンプでなんだか腰が痛い。初日はかろうじて乗り越えたものの、次の日はもうトレーニングが出来る状態ではなく、診察を受けると腰の疲労骨折が判明。頭が真っ白になりました。基本的に折れた腰椎が治るということはなく、体幹トレーニングなどで筋力を鍛えて折れた腰椎の役割を補うしかないと聞かされました。復帰までの一般的なイメージが湧きづらく精神的なダメージとしては非常に大きかったです。

想像以上の壁

手応えがあった中で足の骨折と手術。その後思い通りのプレーが出来ない焦りからオーバー気味なトレーニングをして腰の疲労骨折。(してなくてもなってたかも知れませんが。)

やり過ぎた練習への後悔や、なんで自分だけ、というような負の感情は全くありませんでしたが、例年夏にはトップへの昇格が決まるので、リハビリに数ヶ月かかることを逆算すると時間(実績)が足りないという焦りを物凄く感じていました。

今でも鮮明に覚えているのは、リハビリの段階を踏んで全体の練習に合流するまでに2ヶ月半程度を要し、やっと復帰したその日に、中島翔哉の真後ろからのタックルで約2週間の捻挫をさせられて、悔しくて悔しくて堪らなかったこと。因みに練習が終わったらすぐに謝りに来てくれました。笑

三度リハビリを開始して、復帰しても何かの拍子で地獄のような痛みが出て、練習の序盤で離脱を余儀なくされる。正直、何度この繰り返しをしたか分からなくなる程、この繰り返しでした。

本当に治るのかと疑心暗鬼になりながらも色々な治療法やトレーニングを試し、足を縛って寝たり、座る・立つ・屈むといったような日常の動作にすら最新の注意を払う生活をしました。

それでも腰痛が治る気配は全くなく、徹底的なリハビリをする覚悟が必要でした。トレーナーとも話し合いまた数ヶ月ピッチから離れ、リハビリに専念する覚悟を決めました。全ては高校3年生の夏のクラブユース選手権に向けて。ここで活躍して優勝し、プロへ行く。これがプロになるために唯一残された道でした。

目標や理想があるからこそ、高校生1年生の冬の骨折以降は常に焦りや不安と隣り合わせでした。特に腰の痛みの繰り返しは精神的に苦しく、今こうして振り返るとよく心が折れなかったなと思います。その理由として一つだけ言えることは、それ以上に自分の目標が大きかったということです。チームメイトからの刺激も受けながら、クラブユース選手権に向けて、地道なリハビリに励みました。

次回は後編として、このリハビリの末のクラブユース選手権、そして進路の意思決定とその後について書きます。




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