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1月に思うこと。

 年初からニュースを見ながら呆然として、気がついたら仕事はじめだった。

 短歌の師匠が富山在住だったりするし、北陸方面の歌人たちを心配した。輪島の焼けたところが、阪神大震災の時の長田区の市場の様子に重なって胸が痛んだ。

2024.1.6(土)
 昨日は仕事始めで、徐行運転のつもりが、しっかりフル稼働のようになって、帰宅後はぼんやりした。

 1月になると思うことがある。今年は特に、だ。

 随分前に東須磨に住んでいて、上の階にひとりご高齢の女性が住んでいた。住んでた頃はうちの母とほどよくやりとりがあり、その方は元々は徳島の方だった。その方は1995.1.17の時、たまたま法事がこちらの弟さんのお寺であり寝てたところ、地震がきて、隣で寝ていた旦那さんを亡くされたという。明るくしっかりその時は暮らされていた。

今も色んなことが起こっているのだと思う。自分が住んでいたところは大きな揺れではなかったけれど、その後、高校や大学で出会う何人かは震災のことが関わっていた。街もそうで、もう随分と少なくなったけれど須磨や長田で空白のように空き地があったりするのを見るとぼんやりしてしまう。

 電車に乗って、橋が見えて、島が見えて、元町や三宮で買い物したり友だちとご飯を食べたり…というのを、高校生からずっとやっていると、街も賑やかになっていくのがわかる。けれども、一番最初に会った神戸(高校の時)のまだ仮設が残っている街の印象が自分のなかで原点だったりする。

 実父の生家は二宮あたりにあったらしいが震災でわからず(父方祖母には会ったことがないが、おそらく無事であったらしい)。あの階上の高齢のおばさんも、今も仲良くしてる高校の友達も、もしかしたら、会えなかったのかもしれない。色々と思い出すことが多い。通学途中にあったお線香の跡や、校庭で聞いた講話(学校がもと避難所だった)。

 今じぶんで出来ることは微力な募金とか、自分の暮らしなのだと思う。詩集のなかで震災のことはいったんの、その時に書ける一編にしたけれど、それはかたちを変えて考え続けることなのだとまた思い出している。

書くことは見つめることだと思う。

早く平穏な暮らしへ、と思う。しかし、私が神戸に住み始めた震災から5年後も仮設があった。

あの冬の仮設に洗濯物が揺れてる虚さが記憶にあって、実際その時に暮らしていた人たちはいかほどの苦難をきたのだろう…と年々考えることがある。

風景に記憶が重なって見えるものがあるという感覚。

そういう感覚を忘れないでいたい。