「戦場のメリークリスマス」をみた。。(ネタバレ注意)

今日アマゾンプライムで戦場のメリークリスマスという映画を見た。高速バスで帰京中に。なんとなく映画の名前を知っていて、見よう見ようと思っていて、やっと見れた。戦争映画で何見たことある?と年上の友人に聞かれ、「戦場のメリークリスマスを見ようと思っている」といったときに、「しぶいね~」と言われ、がぜん興味がわき、見ることにした。

R18+の指定がされてたことが、わかるくらい最初の描写は、グロい。もし、隣の人の目に入っていたら、ここで謝罪します。(笑)ここからは、適当にトピックに区切って書きます。

・坂本龍一の顔面がかっこいい

今回の映画で俳優として、そして若いときの坂本龍一さんをはじめてみました。昔のザ・日本男児というととのった顔立ちでびっくりした。その顔立ちだけでなく、不器用な感じの役柄とのギャップが彼の存在感をひきたてていた。ちょっと中性的にもみえるその顔立ちが、この作品のテーマの一つ「性愛」への親和性も高かった気がする。大島渚監督が彼に頼み込んだのも納得できる。

・音楽がいい

私は基本的に音楽に関しては、ミーハーで毎日聞くような人でもなく、ラジオを聞いていたりするときにたまたま出会ったものを一時的に聞くことが多い。でも、映画の音楽の重要性は、今回の映画と「ニューシネマパラダイス」(感想を書きたかったけど、書いてない。胃腸炎になってしまっていた。あとで書くと思う。)をみて、感じた。今、その音楽一つ一つを聞きながら、この文章を書いているがそれぞれの音楽に歌詞はないものの何かしらの情景が浮かんでくるような面がある。不思議な雰囲気がある音楽だ。それが坂本龍一の作風なのかもしれないが。。昔の映画の音楽っぽさがまさにある。音楽がどのように作られるかはわからないが、彼のような優れた作曲家ならば、無声映画を作ることも可能なのではないかと思ってしまう。映画の余韻に浸れる素晴らしい音楽にこれからも出会えたらと思う。

・DAVID BOWIEの回想の意味

私にとって、この映画を複雑系にたらしめたのは、このセリアズの回想である。彼は、ローレンスとともに独房に入れられたとき、彼の弟について話している。寮長として優秀で背も高くイケメンなセリアズに対し、体も小さい弟。(たぶんブラコンだった?)セリアズは、弟に対して完璧であってほしかったと語っているから、様々ないじめられるような要素があったのだと思う。それを助けられなかったセリアズの悔いがここでは語られていた。日本兵と俘虜という二項対立でさも、日本兵が悪のように語られているようにも私には映ったが、こうしてセリアズ側を深堀し、彼ののちの行動につながっていったと思う。そして、弟を無下にしてしまった現実から戦争に救いを求めて飛びついてしまったセリアズを描いている。戦争によって国のために戦う=えらい=罪滅ぼしということを考えていたのだと思うが、結局彼は、弟への悔いを抱えて生きていた。そして、彼が生き埋めでなくなるときには、弟のもとにもどっていった。誰しもが何かを抱え込んで生きているのであろう。そして、それを死をもっても、償うことはできないと思った。それが日本兵が切腹したシーンへの皮肉のようにも今思えば、感じた。
また、セリアズが幼少期に自己犠牲的に弟を守ったのは、いい話だが、それもなんだか日本の特攻隊の自己犠牲と比べるとどうしても、日本の自己犠牲は、誰のためにもなっていない。投げやりな部分が多いのは否めない。

・クリスマスとは、彼らの共通言語か

映画のタイトルにもなっているように「メリークリスマス」は、この映画の重要なキーワードである。ヨノイ大尉がそれを直接取り上げることはなかったが、原軍曹とローレンスの間では、一つの共通言語であった。クリスマスがローレンスとセリアズを開放した。というよりかは、原軍曹がクリスマスを利用したといえる。この物語は、ローレンスと原、セリアズとヨノイ子の二つの関係性が大事であり、対比的だ。ローレンスと原は、思想が異なるもののお互いおかしなところがあるものの憎めないキャラであり、何かと仲が良かった。「死んでくれればもっとすきになったのに」と原はローレンスに言っていたが、それは半分本心で半分嘘であったように思える。(追記:もしかしたら、自分もそう遠くないときに死ぬからそしたら立場関係なくもっと仲良くなれるのにという意味だったかもしれない。)だから、ローレンスを解放した。そして、最後原が死刑となる前に「メリークリスマス」と原は、言った。英語が少ししゃべれるようになった原があえて、そういったことに意味はあった。原とローレンスは逆の立場になったが、ローレンスは原を解放することはできない。(本来は原もそんな権利はなかったはず。)でも、原は自分がやったことが許されないことは理解していたと思う。そして、出会ったローレンスとの本来の共通言語は、「メリークリスマス」だけであって、何かは言い表せないがそこに多義的なローレンスへの思いが会ったように思える。

・ヨノイ大尉

何度か語っているようにヨノイは、かっこよく見えて不器用な昭和の親父のような人でセリアズに対して、不思議な魅力を感じていた描写がある。そして、収容所でセリアズに性愛に近いものを抱いていたに違いない。これを考えていると、極限的な戦争が生み出したものというよりかは、誰もが心の奥に秘めていたものが露見したに過ぎない気がした。男女の友情がそんざいするかという問題に近いかもしれない。物語の冒頭では、同性愛や「おかま」と非難されるシーンが少なからずある。でも、それは何かの延長線上にすでに私たちがもっているようにも感じた。原とローレンスのような友愛も性愛も大きな差異はない気がした。突然それが目覚めたり、隠しきれなくなることがある気がする。何もおかしくない。愛の形はそれぞれだけど、どれも何かしらの関係性でつながっていると思う。切っても切れない。

・タケシというキャラクター

先程も述べたように憎めないキャラクターがタケシ演じる原軍曹である。彼の顔は独特な雰囲気を持つ。坂本龍一とは違ったお山の大将的な日本人だ。理不尽で自分の正しいと思った道を突き進む。でも、なぜか憎めない。そんな不思議なキャラクターだった。「正しい人間なんていない」と原が確かいっていた。それは、戦争において真理であるが、原がそんなことを言うなんて思わなかった。このセリフが原を視聴者側にひきつけ、一気に人間味を増した気がする。原とヨノイの二人の対照的な不器用なキャラクターがこの作品のいいところなのかもしれない。

まとめに変えて。。。

この映画も何が正しいのかなど、私たちに訴えかけてくれるようないい映画であったと思う。様々な対比が混ざり合い、複雑系を形成する。私たちの日常でも小さなスケールで起きていることではあった。戦争映画でありつつも、俘虜の収容所という戦いとは違う意味できつい場所を選んでいるのは、秀逸だし、素晴らしい音楽と配役によって、誰も嫌いになれない不思議な映画であった。言語化できないのが悔しいが、視聴後にジーンとくるたしかに「渋い」映画であったと言える。また、見てみたい。

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