見出し画像

桃太郎は桃から生まれてこなくてよかった話

桃太郎という物語を知っているだろうか。ないとは言わせない。それでもピンとこない方は以下のURLを見ていただきたい。と思ったらリンクが切れていたので消した。各々で調べていただきたい。

今日、記すのはこの物語に対する違和感についてだ。

現代向けにパッキングされたあの物語の中で桃太郎は、実は読者が気づく間もなくアイデンティティを喪失している。

本来、童話もしくは寓話にというもののすべての要素は読者に何らかの教訓を与えるために存在している。例えば、シンデレラにおいてはいじめられていた日常描写は必須だし、人魚姫は足がないという条件なしでは物語は成り立ちえない。全ては最終的なメッセージへの要素になるのである。それを踏まえて一つの大きな疑問を考えてみよう。

“桃太郎は桃から生まれてくる必要性はあるのだろうか”

そうなのだ、実はこの物語、彼が桃から生まれてこなくても話は十二分に成り立つ。

よく分かる場面を二つ紹介したい。「黍団子を渡す場面」と「戦闘場面」である。というか、私が話したいことのほとんどは黍団子についてだ。

ご存知の通り、三匹の動物にきびだんごを渡す場面である。説明するまでもない。

言いたいことはただ一つ、

せめて犬、猿、キジには桃を配れよ! 

以上である。

それだったら、「なるほど、桃太郎だから桃を配って懐柔するのか」と納得も得心も行く。

読者の方々がおそらく小さい頃にご覧になっていたであろう、愛と勇気が友達の擬人化されたアンパンが、悪そうだが憎めない擬人化された雑菌を毎回倒すアニメで我々は学んだはずである。

なるほど、そうだよね、名前にアンパンって入ってるもんね、だからアンパンをちぎってあげるんだね、と。もしそこでジャムおじさんが別のパンを持たせたとしても、それでも彼は自らの顔を犠牲にしていたに違いない。なぜなら彼はアンパンマンであり、全ての問題をアンパンとアンパンを想起させる必殺技によって解決する義務を背負っているからである。

さて、お気づきだろうか、おばあさんの最大の失敗に。そう、彼女が桃太郎にきび団子をもたせたことはあってはならないミスである。世界観が途端にブレてくる。桃から生まれた描写そのものがまるまる要らなくなってしまうからだ。なんなら幼児の睡眠時間を1、2分増やすことが可能になってくる。

せっかくの機会だから、もう少し踏み込もう。川の上流から流れてきた大きな桃をあなたは見たことがあるだろうか、私はない。川から流れてきたものに”ドンブラコ”という擬音で表現した事例をこの物語以外であなたは聞いたことがあるだろうか、私はない。桃から生まれてきた実在する男の子、人間、動物をあなたは知っているだろうか、私は知らない。そうなのだ、もう、なんというか最初から明らかに設定が特異なのである。粗い。ネクターがどこかの代理店に雀の涙レベルの見積もりで頼み込んだのではないかというくらい粗い。

仮にこの広告手段で商品が売れるのならば、アメリカの昔話の中ではアメリカ国民は全員コーラの泉から生まれてきてもおかしくないし、イタリア人はスターバックスのホワイトなんとかフラペチーノから生まれてもおかしくない。このタイミングでスタバはアメリカの会社だよってここで言ってくる人とは、俺はお友達にはなれない。こうも物語のスタートと同時にいくつものサプライズが飛んでくるとこちらとしても少し引く。

なんというか、フラッシュモブみたいな感じである。ものすごく重い。その上この物語、おもしろいことに、ジェンガ並みの無理の上に無理を積み重ねた末にようやく完成した桃から生まれた設定を、一切無視して展開していくのである。おもしろいと書いたが、むしろここまで来るとなんかもうちょっと怖い。

突如始まったフラッシュモブは、店員が踊り狂っている中、隣に座っていた客が急に踊りだして少し経ったくらいのところで唐突に終わりを告げるのである。そう、あなたの眼の前にいる彼は「そうだ、今日は私の誕生日だ」と少しだけ期待をしたあなたの予想に反して一切踊ることなく、あなたには一瞥すらくれず、目の前でメインディッシュである赤ワインで煮た牛ほほ肉を、無心にナイフで切り続けているのである。

「え、お前踊らないの?え、じゃあなんで隣のお客さん、急に踊りだしたの?え?」である。怖さしかない。

おばあさんはこれと同じことをやっている。駄菓子屋のビッグカツに肉が全く使われていないのと同様、黍団子も吉備団子も原材料に一切桃は入っていないのである。

というか、それなら百歩譲って桃団子にして欲しかった。桃を食べられない動物がいない以上(というより本来、桃を食べられないなら動物の方を変えるべきなのだが)、どこかに桃の要素を入れるべきなのだ。というか、桃の方が動物もうちょっと寄ってきそうではないか。なんだよ、きびだんごって、多分味しないでしょ。なんならここでネクターでもいいじゃん。

それに困った末の結果なのか、桃太郎と題した絵本に出てくる桃太郎が一様にピンクの服だったり桃の刺繍がしてある服だったりを着て桃感を出そうとしているのには見るに耐えないものがある。てか、画像の本、きびだんごを入れる袋に桃の絵書くのはずるいだろう、どう考えても。

多分、本来の桃太郎はこんなりゅうちぇるみたいな格好ではなくて、逆にきびだんごみたいな色の格好をしていたのではないだろうか。どう見ても奇抜すぎる。というかその理屈でいくと、金太郎はなんかマカオとかに住んでそうな服着てるよ、きっと。金色のKENZOの虎のシャツとか着そうじゃん。てか、あいつなんで金太郎って名前になったんだろう。

長々と記述したが、この物語の最大の問題はきびだんごである。こいつのせいでブレるのである。本来、我々は子どもの頃にツッコむべきであったのである。「黍団子って何?」ではなく、「何で黍団子なの?」と聞くべきだったのである。吉備が今の岡山あたりでそこ発祥の物語だからだ、ということではないのである。岡山など知ったことか。岡山、桃有名じゃねえし!と、思って調べてみたら結構有名らしい。すみません、岡山県の皆様。てか、だったらやっぱり桃団子を作ればよかったじゃん、おばあさん。


 

 さて、もう一シーン取り上げたい。それは、戦闘シーンである。鬼との戦闘においての桃太郎、強さが常軌を逸している。読み聞かせ絵本などではオブラートで包まれた表現をされているが、ここで以下の桃太郎の童謡の歌詞を見ていただきたい。

取り上げたいのはもちろん、皆さんにあまり馴染みがないであろう4、5番の歌詞である。

【4番】
そりゃ進め そりゃ進め

一度に攻めて攻めやぶり

つぶしてしまえ 鬼が島

【5番】
おもしろい おもしろい

のこらず鬼を攻めふせて

分捕物(ぶんどりもの)をえんやらや

完全にやりすぎである。困っていた村人の宝を返してもらうために鬼ヶ島に向かったはずの人間が刀を振り回しながら鬼を倒して「おもしろい」と一度ならず、二度も言っているのである。マインドは完全に鬼側である。なんだよ、おもしろいって。

昔話だからなんとか主役を張れたかもしれないが、現在の少年誌では確実に主役を張れない戦いそのものが好きなスタンスである。そして、ここでも桃から生まれた設定は当然と葬り去られているのである。

そんな強さを持ちながら、どうしてあんなにキュートなフルーツから生まれてしまったのだろうか、桃太郎。またしてもブレてくるではないか、桃太郎。漫画「ドカベン」の、岩鬼正美並みに名前とルックスのギャップがでかい。いっそ、そんなに戦闘狂なら桃太郎、唐辛子とか高麗人参とかから生まれてくればよかったのではないかって感じだ。


そして物語は終始、桃に触れることなく、何事もなかったかのように「幸せに暮らしましたとさ」エンドをするのである。ピーチ姫もびっくりである。「幸せならいいじゃん」みたいなデキた元彼みたいに皆さんはこの物語を読み終えることができるだろうか。私はできない。だって、全ッ然よくなくない!?世界観ブレッブレじゃん!!なんなら桃から生まれなかった方がスムーズに話進みそうじゃん。きび太郎の方が多分スムーズにいったよ、きび太郎ってすげえ無慈悲そうじゃん、なんか。真顔で鬼殺せそう。
 
そういやきび太郎っていう浅草のラーメン屋めちゃくちゃ美味しくて、朝5時までやってるので、ぜひ。

以上のことを踏まえて、この物語をもう一回読んでみてほしい。多分今までみたいにスムーズに読めなくなってくるはずだ。

だが、最後に一つだけ。

本来の桃太郎、実は現代での絵本の内容とは異なる描写がいくつかあり、そのストーリーだと僅かではあるが納得はいく内容になっているのである。大人用の話を子ども用に変換すると、やはり齟齬は確実に生まれるということがわかって面白い。だが、そんなことは関係がない。なぜか。幼児はネットで調べないからである。スマホネイティブってそういうことじゃねえから。

https://www8.cao.go.jp/youth/youth-harm/chousa/h28/net-jittai_child/pdf/gaiyo.pdf 
(低年齢層の子供のインターネット利用環境実態調査 内閣府 H.29)


以上、桃太郎は桃から生まれてこなくてよかった話でした。

ここから先は

0字

¥ 500

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?