まもられる

人の手が好きだ。

その人がかたちを持って生きていて日々生活しているんだとわかる。
人の手をさわるのはもっと好き。
その生きている実感にゼロ距離で触れさせてほしい。爪切り過ぎてさぁ。ここ昔ケガしちゃって。そんなことを、日々生活している手に触れている間に教えてほしい。

手をぎゅっとにぎって腕も肩もくっついているとき、自分より少しだけ大きな岩陰に隠れている感じがする。

ぎゅうっと抱きついているときもそう。
切実なくらい抱きついて肩に顔を埋めているとき。全身でその人がここにいることを感じる。温度、におい、息づかい、腕の強さ。
大丈夫だ、この人はちゃんと温度を灯して息をしている。いろんなことがあるだろう。うれしかった痛かったかなしかった、その他の言葉にならない心の数々。わたしの知らないところでずっと生きてきて、ぜんぶをもって今ここにいて。腕の力とにおいで包みこまれながら、そんなのがじわっと伝ってくる。

そうやって人の生を感じるとき、その影に身を潜めている感じがするのか。
その影に身を潜めている感じ、それをいちばん感じるのはじいちゃんの手だった。今は記憶の中にしかないから今の感じ方が入ってるかもしれないけど、こんな風に言える気がする。
だいじょうぶだ、この間だけはだいじょうぶ、安心してていい、まもられている

人が隣で思いっきり何かを投げているとき、逆上がりをしているとき、普段はもっと速く歩くんだろうなぁと感じるとき、その人にしがみつきたくなる。ひしっと抱きついてぎゅっと目を瞑って顔を埋めたくなる。

今頃脚が速い人や運動神経のいい人が気になってしまうのは、身体の強さに惹かれているってこと。必ずしも身体が丈夫であればつよく生きていることにはならないけど、身体の健康は生活の要で、生きるうえで生活はある程度の強度で送っていかないといけないと思っているから。

だから身体の強さを感じたとき、
あなた生きてるんだ、つよく生きてるんだね、って言葉にせずに想いを込めたくなる。つよく生きていてほしい、って願いも。
もうひとつは、その人の影にすこしだけいさせてほしい、なにもみないでいたい、そんな衝動。
その間だけはこわいものもかなしいことも、なんにもみえない、そんな気がするの。
別に自分だってそれなりに生活しているし日々生きている、自分を卑下しているわけじゃない。休みたい時期なんてわけでもない。その人が精神的にも常に明るく生きているだなんて思ってもない。
なのにそんな衝動が消えない。多分結構根が深くて、いつでも心のちょっといったところに漂っている。

人といるときにこそ孤独やさびしさを感じてしまう自分のことだ、そんなに距離が近くなってしまえば安息に浸れるか、浸ってばかりいられるかわからない。わからないから期待する余地が残されている。期待してしまう。両手を掛けて期待したくはないけれど。

年々、手を繋いだりぎゅっとしたりできる人は少なくなってきて、行き場のない衝動がふらふらしている。
甘えたいのか、甘えて傷つくのが怖いだけにそうなのか、もちろんそれもある。
でもきっとそれだけじゃない。手をにぎっているとき、ぎゅうっと抱きしめているときの切実さを考えると、甘えや頼るという域と少し電波がずれている。

まもられている、いちばんそう感じるのはじいちゃんだと思う。実際散々守られているのだから親もそうなのか。親へは直接弱みを出すわけではないけど、弱っているとか救われたとか、なにも言わずともどこかで救われている。

じいちゃんや親と、そのほかの好きな人たちとはここが違う。前者には「まもられている」、後者には現状「安心」になっているんじゃないか。「まもられたい」と思うのは自分の体重をフルで掛けている気がする。親は微妙だけど、じいちゃんにはそれをしてもいい気がしていた。でもそうじゃない人たちにそれをするのはかなり気をつけなきゃいけないし、その結果すべきじゃない、となるかもしれない。

それも、そうじゃない人たちとはいくつかの条件の上でつながっているから。
わたしはじいちゃんの孫であるだけなのに、うるさくしても悪いことをしても引かれることをしても大事にしてくれた。手を繋いでいてくれた。幸せなことにそういうじいちゃんだった。
でも普段関わっている人たちはわたしが道でゴミを捨てるところを見たら、夏は嫌だよ生きていけないとずっと嘆いていたら、一歩身を引くだろうし手を繋ぎたいとは思わないかもしれない。

当然だ。むしろあまり低条件で受け入れられる方が抵抗ある。だってそれじゃあわたしたちが大事に思って大事にしていることが掬い上げられない。

相手を信じる、相手の気持ちを信じる。
自己防衛のために相手を信じることを放棄するのは違うけど、だからって「信じてる」を言い訳に相手へ投げすぎちゃいけない。それリュックサックぶん投げてるよ。そんなの独りよがりだ。
そう思って、今そばにいてくれたら助かる、いつかだれかと、あなたと、とか思う気持ちも苦笑いしながらいつもしまっている。懲りないなぁと思うけれど、それができているからいいのか。

だからこれでいいはず、とは思うんだ。これから自分が変わるかなんかして、その中で安息を感じられるようになったらいいのかなぁと思う。少なくとも都合はいい。


まもられる。もうそれは過ぎ去ってしまったの、もうないの? わたしはまもる側になるの


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