人と出会うから私の大事にしたいことや私の輪郭が浮かび上がってくる。

学校と家庭は関係性が凝り固まりやすい。関係が凝り固まるのがなぜ悪いと思うのか、それはきっと人に対して見せる自分の姿も固定されてしまうからなんじゃないかと思うからだと思う。
自分という存在はいろんな側面を持っている。自分が好きな自分。自分が嫌いな自分。得意なことがある自分。苦手なことがある自分。今見えているだけでも沢山あるけれど、今まだ見えていなくてこれから将来経験をしたり想像していなかった自分の一面に出会うこともある。それも含めて全部自分。今見えている自分もまだ出会えていない自分も全部全部が自分なんだと実感していること、「自分が自分であって大丈夫」ということが「自己肯定感」なんだ。自分の好きな自分の一側面を切り取ってそれを自分だと認識したり、この側面は受け入れられない、なくしたいと思ったりするのは理想的な状況とは言えない。
目の前の人が幸せであってほしいなあと誰もが願う。私だって願ってる。そう在るためには私はもっと色んな知識や経験が必要なんだろう。解像度がとっても低いし、考える視点がとてつもなく少ないと思う。でも、私はこれからどんな新しい知識や経験をしてもきっと、今私が見えているあなたも、見えていなくてこれから知っていくあなたも全部あなたで全部大事なんだよという眼差しを持った人でありたいと思うのはきっと変わらないし、そんなあなたがあなたであって大丈夫という眼差しがある文化を持った共同体を耕したいと思うのも変わりたくない。自分が自分であって大丈夫って思えるためにはそういう眼差しで接する他者の存在が欠かせないと思うから。
どんだけ知識や経験をしたってこの気持ちは変わりたくない。私の根っこにあり続けたい。高垣先生に出会えてよかったとつくづく思うし、今ここに好きだなあと尊敬する人たちと一緒に悩めることがどんだけ貴重なことかと思う。私は恵まれている。
人は他者と関わり相互に影響し合う生き物なんだ。人と出会うから大事にしたいことが浮かび上がってくる。私は人なんだ。私はそんな生き物でその捉え方がドストレートに当てはまる生き物なんだ。

まとまらんなあ。まあ日記やから良しとしよう。日記やしな。

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