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中央銀行は「裸の王様」?

英国では、財政政策が金融政策を動かしているという事実を認めることはできない。それは、中央銀行の独立性という認識が崩れないようにするためだけではない。より根本的には、イングランド銀行が財務省の代理人であることを認めることは、現在のマクロ経済理論の知的基盤を破壊することになってしまうからである。


ケインズについて最も熱い伝記を書いたとされる英国の経済学者ロバート・スキデルスキー(英国貴族院議員、ウォーリック大学の政治経済学の名誉教授)は18日、『Project Syndicate』にオンライン記事を寄稿し、コロナ禍において各国が財政拡大に踏み切る中、中央銀行の独立性と主流派マクロ経済学の正当性が未だに固く信じられている状況を上記のように揶揄している。
(リンク:https://www.project-syndicate.org/commentary/uk-fiscal-policy-is-now-driving-monetary-policy-by-robert-skidelsky-2021-05)

記事のタイトルには「The Central Banker’s New Clothes」とあり、これは恐らくアンデルセンの『裸の王様』の英語版のタイトル「The Emperor’s New Clothes」(原著はデンマーク語)をもじったものだろう。マクロ経済学の主流派理論を批判する人間が周囲にいない(あるいは批判を受け付けない)ため、「政府の子会社」という本来の立場が分からなくなっている中央銀行を「裸の王様」に例えているのかもしれない。

スキデルスキーは、(1)イングランド銀行(以降、略称でBOE)が、2020年3月以降、資産買入れ枠として4500億ポンド(69兆円)の英国国債を購入している点、(2)さらに購入した国債全てが、コロナ禍が始まってから政府が発行した新規国債である点を指摘している。

BOEは、「金融政策と財政政策の間には何の関係もなく、資産買入れは義務づけられている2%のインフレ目標を達成することだけを目的としている」と主張している。それにもかかわらず、先ほどの「資産買入れ額が、たまたま同期間の政府の財政赤字額と一致したのは、単なる偶然に過ぎない」とでもいうのだろうか。意地でも「政府の子会社」という身分を否定したいようである。

本来は、「中央銀行は政府によって所有されており、国庫の運営部門である」という認識が一般的であった。しかし、1980年代以降、「過剰な政府債務がインフレの主な原因である」という分析がなされるようになった。1990年代に入ると、中央銀行は「インフレ目標」を掲げ、その手段として金利をコントロールするようになった。一方、インフレの主犯(?)とされた政府(財務省)は「均衡財政」を目指し、支出削減を行うことになった。

これにより、「マクロ経済をコントロールする役割は政府から中央銀行に移った」とスキデルスキーは指摘する。

政府部門と民間部門の支出が各々の収入を上回る場合、中央銀行は政策金利を引き上げ、「過剰支出」が両者にとってより高くつくようにしたのである。そして、2008〜2009年の大暴落(リーマン・ショック)まで、多くの人々は、この体制がそれ以前のケインズ主義時代の過剰なインフレとは対照的に、低インフレを安定的に維持することに成功したと賞賛していた。しかし、こうした分析からは、低コストな中国製品との競争の激化など、物価を押し下げている他のもっと重要な要因が除外されていた。


2008〜2009年のリーマンショックに伴う大不況では、中央銀行は金利政策ができないため「お金を刷る」ことにしたが、政府はインフレを懸念して支出削減に踏み切った。これが「歴史上最も弱い景気回復」に繋がった。 

これに対する反省からか、コロナ禍における不況対策では、財政・金融共に「拡張的」な政策が行われた。「しかし、財務省の政策(財政政策)が金融政策を駆動しているという事実は認められない。なぜなら、それは『中央銀行の独立性』という認識に反するからである。より根本的には、『金融政策だけでは経済を安定させることができない』という事実を認めることは、現在のマクロ経済政策の理論を支える知的基盤を破壊することになるからである。
「中央銀行の独立性」はあたかも絶対不可侵の聖域と見なされており、その信念が揺らぐくらいなら、事実に対する認知すら歪めてしまう、と言ったところか。

続けて後半を一気に抜粋すると、

この「知的基盤」は、1956年にミルトン・フリードマンが貨幣数量説を再び提示した時に遡る。それ以来、(マネタリズムの)訓練を受けた経済学者の多くは、政策立案者が物価水準を安定させることができれば、市場経済は完全雇用状態で自然に安定すると考えるようになった。なぜなら、将来のインフレに対する不確実性は、民間企業の意思決定に決定的な疑念をもたらすからである。そこで、独立した中央銀行に通貨発行権を与え、政府は予算を均衡させることで、マクロ経済政策を物価水準の管理に絞ることにしたのである。

フリードマンが唱えた貨幣数量説は、一見何の問題もないように見えるが、「安定した貨幣残高の需要」という経験的には検証されていない仮定に大きく依存していた。(フリードマンによれば、)中央銀行が物価水準をコントロールできるのは、貯蓄と消費の比率が予測可能であるからである。中央銀行は、国民に供給する貨幣の量を変化させることで、どのような物価水準であっても達成することができ、同時に経済の過熱や冷え込みが起きないことを保証することができた。

しかし、フリードマンは、ジョン・メイナード・ケインズが「投機的な貨幣需要」と呼んだ概念(1925年にイギリスの経済学者ラルフ・ホートリーが簡潔に指摘した)を無視していた。「貿易が停滞しているとき、貿易業者は現金を蓄えこむ。どんな事業からも利益の見込みがなく、どんな投資からも〔収益〕率が低いからである。」ホートリーは、「貿易が活発なときは、遊休残高はより深刻な損失となるため、貿易業者は急いで自身の事業にすべての資源を投入する」と述べている。

つまり、経済の状態が貨幣の流通量を左右するのであって、その逆ではないということである。将来のインフレに対する不確実性は、企業の意思決定に影響を与える多くの要因の一つに過ぎず、これは企業の 「顧客がドアの前にいる」という期待を反映している。したがって、中央銀行が純粋な金融オペレーションによって物価水準や経済活動の水準をコントロールする能力は非常に限られているのである。

要するに、貨幣が予測可能な方法で経済に影響を与えるためには、予測可能な方法で支出されなければならないということだ。そしてそれは、支出する主体が政府である場合にのみ可能である。つまり、金融政策の有効性は、中央銀行が財務省の代理人(政府の子会社)であるかどうかによって左右される。しかし、財務省は邪悪であり、中央銀行は高潔であるため、誰もこのことを認めることはできない。よって、マクロ経済政策の公式言語は金融政策のままなのである。財政政策との相関関係は、もちろん純粋に偶然のものである。

スキデルスキーの説明が示すように、中央銀行が、今もなお実質的な「政府の子会社」として機能していることは、(当の中央銀行や経済学者がいくら頑なに否定したところで、)現実のオペレーションを観察すれば明らかである。スキデルスキーはかなり皮肉を込めて文章を終えているが、中央銀行が実際に「中央銀行の独立性」というフィクションを捨て去り、「高潔な中央銀行」という肥大化した自画像を塗り替える日は果たしてやってくるのだろうか。(了)

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