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S・ケルトン『The Deficit Myth(邦題:財政赤字の神話)』、第1章の解説

 Twitterで主に政治経済について呟いているゲーテちゃん(@goethe_chan)と申します。試験的にnoteを始めてみました。

 早速ですが、私が関心を持っている経済理論「MMT (現代貨幣理論)」関連の記事です。

 MMTの代表的な経済学者ステファニー・ケルトン教授の新著『The Deficit Myth: Modern Monetary Theory and the Birth of the People’s Economy』の第1章の内容について解説します。

 正式な邦訳(邦題:財政赤字の神話:MMTと国民のための経済の誕生)は今月9月17日に発売予定でしたが、30日に延期になったようです。

 本書はタイトル通り、MMTの知見を軸に財政赤字にまつわる「神話」の誤りを暴露し、MMTの「レンズ」を用いて財政と経済の現実を明らかにします。

 第1章で語られる「神話」は、「政府は家計と同じように予算を組まなければならない」という考えです。ケルトン教授は、財政の議論において最も弊害が大きいのがこの家計目線の財政論であるといいます。

 一般人から、学者、官僚、政治家に至るまでこの発想は根強い。ましてや大統領ですら以下のような発言をするのです。

“全国の家庭が財布の紐を締めて、苦渋の決断をしているのである。連邦政府も同じことをするべきだ。”——オバマ前大統領、『2010年一般教書演説』

これに対しケルトンが突きつける「現実」は以下のとおり:「家計と異なり、政府には支出に必要な通貨を発行することができる。

 ここで彼女が示しているのは、政府の権限の一つである「通貨発行権」です。

 家計や企業、地方政府と異なり、中央政府だけが通貨を発行する(issue)権限を持っています。他の主体は全て「通貨の利用者(user)」に過ぎません。

 MMTが主張するのは、通貨利用者(users)通貨発行者(issuer)をきちんと区別することです。

 家計や企業と違って、政府は通貨を発行することができるため、同じ通貨で借入をする限りは返済不能に陥ることはないのです。不換紙幣(fiat currency)を発行し、自国通貨でのみ借入を行う場合、国家は完全な「通貨主権(monetary soverignty)」を持つことになります。

 考えてみれば至ってシンプルな理屈なのですが、例えばイギリスのマーガレット・サッチャー首相はこのような発言をしています。

国家には人々が稼ぐお金以外に資金源はない。国家がより多くの支出を望むなら、それはあなたの貯金から借りるか、あなたにより多く課税することによってのみ支出が可能となる。

 まさにこれは家計の延長線上で国家財政を論じてるのですね。政府は自分で通貨を発行できるのにもかかわらず、国民から資金を調達しなければならないという話になっている。「存在するのは納税者のお金だけである」とまで言っています。

 ケルトンは政府支出の財源として税を徴収する考えは端的に誤りであると指摘します。一国の指導者ですら財政赤字を問題にするわけですが、MMTerが示すのは財政赤字こそが通常の状態であるという事実なのです。

 ここは彼女の言葉で引用しましょう。

政府が国民のお金を必要とするのではない。私たちが政府のお金を必要とするのだ。私たちは全てを逆の方向に捉えてしまっているのだ。

 全てが逆の方向とはどういう意味か。MMTを語る上で欠かせない人物にウォール街の投資家ウォーレン・モズラーがいます。彼によれば、政府は「先ず支出し、その後に課税や借入を行う」というのです。先ほどのサッチャーの発言に基けば、まず課税や借入があって後に支出を行うですが、モズラーはこれを完全にひっくり返しました。まず支出ありき、これをMMTでは「スペンディング・ファースト」と言ったりします。

 ここで、通貨発行権を持つ政府は財源に困るはずはないのだから、そもそも租税は必要ないのではないかという疑問が湧きます。これはMMTが無税国家論として誤解される点でもあります。

 租税の役割について、モズラーはこう述べます。

租税は資金調達のために存在するのではない。租税の役割は人々に政府のために労働と生産を行うよう促すことである。

 モズラーは租税の財源としての役割を否定した上で、租税の第一義的役割は、国民に納税義務を課すことで、納税の手段である政府通貨への需要を創造することにあると説明しています。政府通貨への需要を生むことで労働と生産を促すことができるのです。

 そして納税に必要な通貨を得るには、政府がまずその通貨を経済に供給しなければなりません。政府が先に支出しなければ、誰も租税を支払うことはできないのです。

 これも理屈上は当然のことなのですが、家計目線のままだと中々受け入れ難いかもしれません。ここでまたもや直感に反する結論が導かれます。

 納税者が政府に資金を供給するのではない、政府が納税者に資金を供給するのである。

 国民に納税をしてもらうにはまず政府が支出をしなければならない。そして通貨発行権を持つ政府はいくら支出を行っても家計のように破綻することはない。少なくとも財政上の制約はありません。

 ケルトンは政府が財政支出を拡大する上で必要なのは税収ではなく投票であるといいます。財政上の制約が存在しない以上、財政政策は政治的な決断であるということです。

 またMMTによれば、租税には政府通貨への需要の創造、労働と生産の促進以外にも、重要な役割があるとしています。

 真っ先に挙がるのがインフレ対策です。これは第2章でも詳しく書かれていますが、いくら政府に財政上の制約がないと言っても、支出の拡大がインフレを招く可能性はあります。ここで注意すべきなのは、通貨を発行し過ぎること自体がインフレを招くとは言っていないということです。ケルトンはあくまで「お金を刷ること(printing)が問題なのではなく、お金を支出すること(spending)が問題となるのである」と区別しています。

 租税には経済から政府通貨を回収することを通じてインフレに対処する役割があります。もちろん租税といっても種類は様々あります。インフレを対峙するためならどんな税制を用いても良いというような乱暴な議論はMMTではしません。むしろインフレ圧力抑制に効果的な税制や適切な増税のタイミングを他のどの経済学派よりも重視しているのがMMTなのです。

 次に重要とされる租税の役割が「富と所得の分配を調整する」ことです。

 「資本主義は売買によって成り立つ」以上、投資や消費がなされなければ経済は回りません。この視点から考えると、トップの富裕層は貯蓄率が高く、所得や資産が彼らに集中しすぎてしまうと、投資や消費への活力は却って失われてしまう危惧があるのです。富める者を先に富ませれば彼らの恩恵が下の所得層までこぼれ落ちるなどと説く「トリクル・ダウン」理論はまやかしであることがわかりますね。

 政府は財源を気にする必要がない以上、富裕層への課税の目的は、貧しい者を救うために富める者から資金を調達することではありません。ただ純粋に極端な富の集中、所得格差を是正することにあります。これを放置していると先に述べたように経済の健全な活動を阻害するだけでなく、金権政治の流行によって民主政治が骨抜きになる恐れがあるのです。

 最後に、租税は特定の活動をコントロールする手段としても用いられます(「悪に課税せよ」)。具体的には公衆衛生の改善、気候変動への対処、金融市場の投機行為の規制などです。これらに対してはタバコ税や炭素税、金融取引税といった対策が取られます。逆に、特定の活動にインセンティヴを与えるため、減税措置を講じて環境に優しい消費行動を促進したりもします。

 また、租税だけでなく国債に対する誤解もあります。結論から言うと国債とは利子付きの通貨に過ぎません。ケルトンはインタビューに応えた際に「国の借金」(national debt)などと呼ぶから無用の誤解と懸念を生むと嘆いています。この呼び名はアメリカでも使われるのですね。

 100年以上にわたって、連邦政府は支出の赤字分と同額の米国債を売却してきた。よって、もし政府が5兆ドル支出し4兆ドルを税で徴収すると、赤字分となる1兆ドルの国債を売却する。政府の借入とは、政府通貨を有利子通貨である国債に変換する作業に過ぎない。

 この記述を見てもわかるように、家計と財政とでは借入の意味が根本的に違います。家計の場合は単にお金が足りないから借りているにすぎません。ところが政府の場合は、利子のついた別種の通貨を発行しているにすぎません。「政府がそうするのは金利を維持するためであって、支出を賄うためではない」のです。

 財政制約は存在しないとなると途端に誤解されるのですが、ケルトンも明言している通りMMTは「フリーランチ」ではありません。財政制約というのは「自らに課した制約(self-imposed constraints)」に過ぎないのであって、真の制約は別に存在するというのがMMTの立場です。

 とはいえこの偽りの制約は政治的には実に都合がいいとされています。政治家は有権者から福祉や教育への支出拡大を求められたときに、同情を示しながらも財政赤字を盾に首を横に振るわけです。

 リベラル系の政治家に多いのは「〇〇から医療に回せ」と言ったレトリックですね。これは日本でもアメリカでも変わらないようです。先ほどの富裕層への課税も「貧困層や中所得層の家庭の救済を富裕層に賄わせる」目的で提唱されます。しかし、本来財政制約はないのだから、富裕層からいくら取れるか分からない資金をあてにせず、貧困対策に必要な分は必要なだけ政府で用意できるのです。これについてはケルトンも「結局ロビンフッド(訳注: 義賊的な方法を指す)は人々に愛されるのだ」と皮肉を放っています。

 ケルトンは結びに「財政責任」の再定義を主張します。従来の財政責任は、作り物の制約に囚われ財政赤字を減らすことに執着しています。それによって、実体経済における人々の生活や人々にとって必要な財やサービスが蔑ろにされているのです。「財政上の成果(budget outcomes)」よりも「人々のための成果(human outcomes)」を優先すること。これが真の「財政責任」であるというのです。

(以上)

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