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選択肢が多いって、幸せにつながると思う

先日、ちょっとした買い物でショッピングセンターに行ってきました。
店頭に陳列されているたくさんの服を見て、あらためて世に出回るアパレル製品の多さに驚きながら、これらが全て買ってもらえる訳ではないんだよね、何割かはそのまま廃棄されるんだよね、などと、まるで保健所で殺処分される前の犬を見るような気持ちで、ショッピングセンターの華やかなディスプレイを眺めていました。

こういうところに来ると、いつも思います。
世の中には、こんなにも沢山の服があるのに、私がさらに服を作る意味ってなんだろうと。


自分が着たい服を自分で作る技術は、もうある程度持っているので、それで自己満足・自己完結することはできてしまいます。
でも私は服を通して、自分の思想を発信しています。
それに何の意味があるのかと考えるのは、なぜ生きるのかという問いにもつながってくる問題です。


ずいぶん前ですが、東ヨーロッパの、当時ソビエトの一部だった国についてのテレビ番組を見ていました。
食糧や物資の配給システムについて説明されていた時、レポーターの方が石けんについてコメントしていました。
配給される石けんは一種類しかなく、自分の好きな香りや、泡立ちや、使い心地も選ぶことができない。
そんな小さなところでも、自由がないってこういうことなんだなと。


それを見ていた時、選択肢があるって幸せなことだなと思いました。


今の私たちが住む資本主義社会では、結構な自由が認められています。
多様性が叫ばれるようになって、人生の選択肢がより広がったようにも思います。
結婚や出産など、昔ほど「しなければならない」という空気感はなくなってきましたし、仕事の種類や働き方も、色々と選べるようになってきました。

男女格差も減って、少なくとも機会の平等は与えられているので、勉強して知識や技術を得られると、行動も思考も、新しい可能性がどんどん広がって、人生の選択肢が増えていきます。
自分と合わない環境に無理に居続ける必要もなくなって、より良い場所や方法を探すこともできます。

それは娯楽に関してもそうで、もう既にたくさんの名作と言われる音楽や、小説や、映画がありますが、今でもどんどん新しいものが生まれてきています。
沢山の選択肢があるからこそ、その中から自分の好きなものを選び取って自分が好きな世界を自分で構築し、その世界にどっぷりと浸かることができるようになりました。


だからこそ、私が創る服も、私という人間も、存在する意味があるのだと思いたいです。

数ある選択肢の中から、私の服が良いと思って、選んでくださる方が居て、その方の生活が、ほんの少しでも豊かになるお手伝いができたのなら、それはとても嬉しいことです。
そして自分が選ばれたことや、与えられた環境に感謝して、私と関わってくださる人たちに、私と出会えて良かったと思ってもらえるような存在になれたらそれだけで、私の人生は大成功だと思うのです。

私は、goenを続けるのも、変えていくのも、辞めるのも、自由に選ぶことができます。
この先どんな場所で、どんな生活をするのか、私は選ぶことができます。
既に私は、幸せな人生を送れているなと思う、今日この頃です。

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