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【GODAIグループ90年の歩み】③スポーツ事業の飛躍とグループの基盤確立

GODAI note編集部です。

GODAIグループの90年の歴史を、現会長の佐藤武昌が振り返る【GODAIグループ 90年の歩み】シリーズ。第3回の今回は、1980年代~90年代にさかのぼります。

好景気からバブル崩壊へと、日本経済が大きく揺れ動いた1980年代~90年代。この20年の間に、テニススクール事業を中核としたスポーツ部門は大きな飛躍を遂げ、自動車事業と並ぶグループの新たな柱に成長しました。

(※以降は、佐藤会長の視点で話を進めます)

スポーツ事業が大きく発展

「白楽テニスクラブ」を開業しスポーツ事業に乗り出す(1978年)

1978年に横浜・白楽の自動車教習所跡地に「白楽テニスクラブ」を開設して以降、80~90年代にはテニススクール事業が自動車事業と並ぶ事業の柱として大きく発展しました。そこに多大な貢献を果たしてくれたのは、80年に社員として正式に加入した吉田信之(現・専務理事)と高澤克己、その後に加わった黒田昌吾の3人です。

80年代当時は、好景気とテニスブームを背景に、世間では会員制のテニスクラブ(コーチを置かない形態のクラブ)が増えていました。しかし、神奈川園でのテニススクールの経験から、「コーチがレッスンを提供する」ことに価値があると考えた私は、スクールの形態にこだわりました。

名称も、アメリカの名門テニスカレッジからヒントを得て82年に「横浜テニスカレッジ」に改称。今日、経営難から閉鎖するテニスクラブは少なくなく、この判断は正しかったと振り返っています。

インドアコート化でさらに飛躍

吉田、黒田、高澤のコーチ陣を中心に会員数を順調に伸ばしていった横浜テニスカレッジ。設立当初(1978年)の420人から、92年には1,500人を突破しました。

当時の会員の皆さまとの集合写真。二列目の中央寄りにいるのが黒田コーチ、右端にいるのが吉田専務(1986年)

しかし、そこから会員数が頭打ちになりなかなか伸びません。アウトドアコートのため、雨の日はレッスンができないことがネックだったのです。

その時、吉田が大胆な提案を持ってきてくれました。

「いいテントを見つけました。これならインドア化できますよ!」

大阪で開かれたコンベンションで、開閉式のテントを製造する会社に出会ったのです。すぐさま実行に移し、97年、白楽のコートに開閉式のテントが設営されました。インドア化の効果はてきめんで、99年には2,000人を突破。そして2005年には最大となる2,950人にまで達しました。

インドアコートに改装したことで、最盛期には会員数は3千人近くに達した(写真は2001年)

他にもオリジナルテニスウェアブランド「T’s」や、テニススクール専用の顧客管理システムの開発・外販など、横浜テニスカレッジはテニススクールビジネスの先駆者として業界内に広く知られる存在となっていきました。

また、テニススクールのメソッドをゴルフにも展開し、87年には吉田、高澤を中心に「横浜ゴルフアカデミー」を開設。最盛期には800人の会員を集めました。

「横浜ゴルフアカデミー」を開業(1986年)

58歳で理事長に就任

1997年、父・佐藤忠三なき後、理事長としてグループを陰で支え続けてきた母・マスが逝去しました。その後を受け継ぎ、同年、私は「財団法人神奈川自動車専門学校」の理事長に就任しました。

この時、私は既に58歳を迎えていました。入社後も「神奈川園」の社長をはじめ不採算の仕事ばかり任され、苦しい時期を長く過ごしてきました。ただ、この苦しい経験が経営者としての心構えや覚悟、経営観を培ってくれたのだと、今では感謝しています。

理事長になった私は、新たに「挑戦」という社是を掲げました。忠三の「精励努力」の精神を自分なりに解釈し、「挑戦」の二文字に込めたのです。この「挑戦」は、現在でもGODAIグループのグループ理念として息づいています。

<GODAIグループ 経営理念>
私たちは現状に満足せずあくなき挑戦を続けることで、新たな価値の創造を行い、人々の「Delight-Life(活き活きと輝ける生活)」の実現に貢献していきます。

GODAIが社会に提供する価値とは

「以前は買い物に行くのも辛かったけど、体が軽くなりました」

「そういえば、スクールに通い始めてから風邪をひかなくなりました」

横浜テニスカレッジを運営する中で、お客さまからこういった声を耳にするようになりました。

これまで、神奈川園をはじめ赤字続きの会社や事業を任されてきた私は、「どうやったら儲かるだろう?」ということばかり考えてきました。私の背後には多くの社員がいるので、とにもかくにも「食わせること」が最優先だったからです。

ところが、お客さまからそのような声を聞く中で、「営利事業であるテニススクールがお客さまの健康に寄与しているんだ」と気づきました。

そのとき、ふと思い出しました。忠三が1952年に「財団法人神奈川自動車学校」を設立したことを。

株式会社でなく、公益性の高い財団法人を選んだ、その根底にあるのは「事業を通じた社会貢献」なのだ。その理念を欠き、目先の利益を追うだけでは事業は永続しない――理事長になって、私はようやく忠三の思いを理解したのです。

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