常に意味があることをしようとする悪癖について、あるいは思考の自家中毒

大して頭も行動力もない自分ですが、昔から常に意味があることをしようとする癖がありました。これは決してポジティブな意味ではなく、自分の頭を余計に疲れさせるとんでもない病でした。

例えばゲーム一つを取ってもどうすれば勲章が取れるか、最上位のランクに上がれるかを考えてしまい、逆にそのゲームをどうやって楽しむかということは後回しになってしまうのです。

「どうやって楽しむか」

これは自分にとって非常に重要な問題です。ゲームというものは自分も含め多くの人がうまくいかなければ楽しめないでしょう。敵に負け続けて、バランス調整的な意味で運営がお情けで設定したbotプレイヤーに勝っても何とも嬉しくないものです。

かといって、ゲームで常に効率的に戦うことは面白くないものです。

FPS(ファーストパーソンシューティング)を例にあげましょう。FPSで大して上手いプレイもできない人が、最も効率的にランクを上げる方法は「相手が嫌がることをする」「人がやりたがらないことをやる」ということです。

例えば、相手の視覚外から一撃で倒せる武器を使用する。弱いプレイヤーがリスポーンする場所で待ち伏せする。死にかけたらすぐ撤退する。

こうしたテクニックとも言えないような戦法をひたすら繰り返していけば大抵のFPSではランクを上げることができます。

しかし、これは単なる作業です。楽しいかと言われれば、どちらかというとめんどくさい。

じゃあなんでこのようなことでランクを上げるのか。それはランクを上げることこそが本能としての「楽しさ」だからです。

例えば、「勉強は楽しい」と言っている人がいます。勉強は楽しい、良い言葉ですね。

では「勉強は楽しい」と言っている人が、その勉強している分野で全くものを知らなければどうでしょうか?

また、仕事にも似たような話ができます。「仕事が楽しい」と言っている人が、例えば営業成績万年最下位だったらどうでしょうか?

口で、それでも楽しければ楽しいんだということは簡単です。しかし、他人がどうこう言う前に、まず本人が感覚として違和感を覚えるのではないかと考えています。自分はそうでした。

勉強が楽しいと言っているが、全然勉強ができないのに楽しいと言っていいのだろうか?仕事ができないのに、楽しいと言っていることについて、他の人はどのように思っているんだろうか?

つまるところ、大抵の人は楽しいと言うためにはそれなりの成果が必要だという結論に至るのです。そして成果を出すためにはそれなりの型を使う必要があるというのは自分の単なる感想です。

成果とはまさに「意味」です。ゲームを楽しむというのは「感覚」です。

ゲームで成果を出しているから楽しいというのは根本的に見ればどこかズレています。

一方でゲームというのは、自分で選択の拒否権が無いことも往々にしてあります。別に勉強や仕事以外にも、流行りのゲームだったり、流行りのドラマの知識だったり、そのコミュニティに合わせたゲームが存在しますし、また自身の価値を上げたり、憎い相手を倒す目的で、楽しみとは別に自ら参加することもあるでしょう。

昔は映画が好きでした。別に高尚なものではなく、単にバイオハザード2とか、踊る大捜査線とか、そういうのを見るだけで十分でした。
ネットが普及してからfilmarksやら、みんなのシネマやらレビューを見る訳です。まあ酷い書かれようで、そんなに言うなら一般的に映画好きと言われる域まで到達して、お前らを否定してやろうという負の炎が自分の中に燃え上がりました。

そして、こういった現象は他の小説だったりゲームでも同じことでした。相手にマウントを取られないため、相手を打ちのめすためにひたすらコンテンツを漁りました。

ゲームであればいわゆる上位○%しか入れないランクに行くことにこだわりました。考えてみれば昔から意味を考える続けるという癖は、相手に負けないためにその行為に意味があるかといった歪んだ思想を考える癖であったといった方が正確かもしれません。

そうして頭脳をおかしな方向に燃やしながら、それを何かの言い訳にしてはいけないと普通の生活も送り続け、気づけば趣味というものはどんどん面白くないものになっていきました。

当たり前ではあるのですが、この行動にどんな意味があるのかということを考え続けて報われるのはトップ企業の経営者やプロ選手くらいなものです。

せいぜい小銭を稼ぐくらいしかできない平凡な学生が、意味を考えて刹那的にカタルシスを得たとしても、それは今後人生経験を得た上で得られるはずであった豊かな喜びを、青い果実を先に貪る行為に等しいのです。

さて、社会人になりました。こうなる途中に恋愛や就活があり、勉強しなかったりスポーツがそんなに得意でなかった割にはまあうまくやったと言えるでしょう。

しかし、今では休日にめっきり映画も本も見なくなりました。何かを見てもどこかで見たような内容で、あまり意味を感じられません。特定の作品が好きなだけだったので、今まで読んだものをリピートするような、老人の趣味に成り下がりました。

デートや遊ぶことはとても楽しいです。リアルでは何も考えずに遊ぶ瞬間が確かにあります。しかしふとした帰り際とか、待ち時間とかに、今日は何をどのタイミングでどんな風に会話するか、クロージングはどうするか、相手を次に誘うタイミングはいつがいいか考えてしまいますし、人間関係のメンテナンスという意味で次に誰に会うか考えるこの行為には意味があるのかと考えることがあります。

さりとて、この生活を全て切り捨ててただ何もしない、それなりに好きなことをするというのはもうできない頭になってしまいました。何もしない間はしきりに何かの意味を探してしまいます。

仕事は楽でいいです。仕事をしている間は、正しいと思われる方向に思考をすることができる。少なからずお金を貰えますし、退屈に比べれば遥かにマシです。

今はスリルもありません。会社や家族がいる以上は楽しいといっても、やはり一定の制限はあるのです。昔から家族はいますが、社会に出てからより一層、無闇なことはできないと思うようになりました。

これは教訓でもなければ、激励の言葉でもありません。ただ人生を振り返って、もっと意味なくYouTubeでつまらない動画を見れば良かったなとか、もっとゲーセンでメダルゲームでもやればよかったなと思う訳です。

人間が人生を燃やして作り上げた作品や、誰かが大切に育てた人のデートだとか、勝つ喜びだとか、そういうメインディッシュはもっと後に取っておけば良かったなと思う訳です。

さりとて、そういうものに意味を出してコツコツと動き続けていなければ、今のような環境を逆に羨望する立場になっていたかもしれないと思います。

自慢のように見えますが、書いている本人としてはちっとも自慢ではありません。

よく記憶を消してもう一度この作品をみたいという言葉がありますが、あれに近い。
ゲームも本来プレイの過程を楽しんだ上でエンディングの瞬間の喜びがあり、最初からエンディングありきでプレイしてもつまらないだけでした。

多分自分が見ているのは表面と裏面の表層であって、もっとやり込みプレイや縛りプレイもあるのでしょう。しかし、それをする気力はもはやない。

そんな当たり前のことに今さら気づいた人間の自戒です。

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