私を泣かせてください

 彼女は僕より5歳年上だ。僕は学生で彼女は会社員。僕はいつでも彼女の手の上でころころと転がされているような気分で、それが何とも心地よかった。

 交際歴3年とちょっと。大好きという気持ちだけで同じ時間を過ごした。一緒にいる今が一番大切。未来や将来なんて考えたこともなかった。そして彼女もそうだと勝手に思っていた。

 僕はリュートというくびれのないギターみたいな弦楽器の演奏者を目指す音大4年生だ。就職活動はしていない。する気もさらさらない。リュートを学び続けるのにどこかに所属する必要もないと思っていたけれど、ふとした幸運が舞い込んで、卒業後、ドイツの音大へ留学することになった。

「アナタの前途は洋々でキラキラだね」

留学が決まったことを喜び勇んで報告すると彼女はうれしそうに言った。

「まるで万華鏡みたいな未来。いろんなことがあって変化に富んでて、きっとどんな景色も光り輝いて美しくて」

思い出すあのときの彼女は少し悲しげだったのかもしれない。当時の僕は浮かれまくっていて、全然気がつかなかったけれど。

「そうかなあ。でもよそ者だからいじめられるかもしれないし、実力の差に愕然として一晩で髪がまっ白になるかもしれないよ」

僕はまんざら冗談でもない不安を、冗談っぽく吐露してみる。

「アナタのリュートはとても特別だと思う。真冬のすごく寒い日に恋い焦がれるマシュマロ入りのココアみたいにあったかい」

彼女はふんわりとした口調で言った。

「不安もいじめもないことを祈るけど、もしあったとしても乗り越えてリュートを続ける責務があるわ。お気張りなさい!」

彼女は僕の背中をばん、と叩いて喝を入れた。

 僕らはいつもこんなふうだった。僕が弱音を吐くと彼女が叱咤激励する。逆はなかった。彼女は大人で、僕は子供で。そう、僕は本当に子供で彼女の胸の内にまで思いを馳せることがなかった。彼女の、決して直球ではない言葉を額面通り受け取って、それが全てだと思っていた。

 卒業と留学を間近に控えたある雨の日に僕らは会った。ドイツ出発前最後のデート。僕は彼女にステキなディナーをごちそうしようとはりきっていた。

「会うのも今日で最後だね」

待ち合わせたいつものカフェで彼女が言う。

「ドイツ出発前はね」

僕は訂正したが、彼女は一回目を閉じて、ふうっと大きなため息をついた。

「アナタは私のとても大事な人。ずっと応援し続けることを心に誓いつつ、お話がありまして」

がちゃがちゃと言葉を積み上げている途中で机の上の彼女のケータイが鳴った。彼女は苦笑して中断し、目線を僕から逸らす。弦楽器調の美しいメロディが流れて止まる。

「ヘンデル。ラシャキオピアンガ。邦題は『私を泣かせてください』」

僕は反射的に曲名を呟いた。正解、さすが。彼女は手を叩く。一応音大生ですからね、で、お話とは。僕は尋ねる。彼女は芝居っぽく咳払いをして再び言葉を積み上げはじめる。

「私たち、今日でお別れしましょう、というお話」

は?思わぬ展開に僕は言葉を失う。

「アナタはドイツ、私は日本。その距離およそ9000km。私たち遠距離向きじゃないよ、どう考えても」

彼女はさらっと答えた。涙も深刻さも悲しみもなく、清々しく。

「どうして、どうしてそんなこというの?このあとディナーの予約、奮発したのに、粉骨砕身バイトもしてさ」

と、僕は駄々をこねるのがやっとだった。

「ほんと?ありがとう。じゃ、行こうよ。最後の晩餐だもん、豪華にぱーっとね」

彼女は言ってにっこり笑った。

 「最後の晩餐」は別れ話なんかなかったみたいに朗らかだった。満腹とほろ酔いになって外に出るとまだ雨は勢いを失わずに降り続いていた。

「じゃあここで。空港にお見送りには行けないけど、気をつけて。成功を心から祈ってる。がんばれ!いじめに負けるな!」

大きく全身で手を振りながら明るく言うと彼女は僕に背を向けてさっさと歩き始めた。雨の中。傘も持たずに。

「濡れるよ」

後ろから追いかける僕の声に、無言でひらひらと後ろ向きのまま手を振る彼女。振り向かず歩き続ける後ろ姿がどんどん小さくなっていく。

「ずるいよ、ひとりで何でも決めて」

僕はたまらず彼女の背中にむかって叫ぶ。彼女は歩みを止めて、ゆっくりと振り向いた。

「先にひとりで決めたのはアナタのほうよ」

小さな子供を穏やかに叱るお母さんみたいな口調で言う。

「ドイツ行きも一人で決めちゃって、一緒に行こうって一度も言ってくれなかった。誤解しないでね、アナタのキラキラした未来はとてもうれしいのよ。ただそこに私はいないの」

僕をじっと見ながら彼女は続けた。

「そうしたら約束なんておいていかないほうがいい。せめていい思い出にしたいから」

 じゃあ、ほんとにじゃあね。にっこり笑った彼女の左目からぽろりと涙がこぼれた。

「ええと、ちなみにこれは汗ですから」

めちゃくちゃなことを言い、雨の中でもはっきりわかるくらいに両目からじゃらじゃら「汗」を流す彼女。送るよ。僕は思わず言う。彼女は毅然と首を横に振る。

「私を泣かせてください。ひとりで」

そう言うと彼女は再び雨の中へと歩き出した。