はばたけ いのち あるかぎり

ある夏の日、野球の試合が雨で流れて石巻に行った日のこと。
「雨は止んでるけど水はけがね、グラウンドの状態がアレだから、多分中止だと思いますよ」
駅で乗車して行き先を告げたとき、タクシーの運転手さんは親切にも懸念を表明してくれたのだけど、薄曇りの空にはほのかな太陽の光が見えていたから諦めきれなかったのは私。とりあえず球場に向かってみてください。というと、まあいいですけど、と運転手さんはすんなり了解して車を発車させてくれた。
「あー、ほらほら、やっぱり中止ですよ」
利府の野球場の入り口には「本日中止」という大きな看板がデカデカと掲げられていた。予想が当たって少し誇らしげなタクシーは看板の前でくるりとUターンして元来た道を戻り始めた。
「で、どうします?駅まで戻りますか?」
車を走らせながらの問いに私は反射的に答えた。
「ショッピングセンターに行ってください」
「え?別に普通のイオンですよ。東京にも同じのあるんじゃないの」
「…でも、おなかすいちゃったので」
ごまかすみたいに言うと、なるほど、とあっさり納得してくれた。
立て直そうと思った。
大型ショッピングモールはオアシスだ。道に迷った時、予定が狂った時、どうしていいかわからなくなった時。ショッピングモールでリラックスしてリセットする。安全で、食べるものがたくさんあって、必要なものは大体買える。聞けばなんでも答えてくれる店員さんも、声をかけるまでは放っておいてくれるのもありがたい。
夏休み中とはいえ平日の午前中。気前よくたくさんのベンチが置かれた休憩所は空いていた。持っていたペットボトルのお茶をごくりと一口のんで一息つく。ポケットから携帯端末を取り出して、地図を開いた。利府球場でデーゲームを観戦するつもりでここまで来たわけだが、雨が止んでも雨天中止。東京に戻る新幹線は夕方で、17時までに仙台に戻れば間に合う。
それまで何をしましょうか。観光サイトを繰ったりしてしばらく色々考えてはみたものの、
(やっぱり石巻かな)
呼ばれているのかもしれないとか勝手に浮かび、感傷的すぎると恥ずかしくなって打ち消した。でも、8月だし、お盆の時期。遊びに行きますと約束して結局行けなかった石巻のことがずっと引っかかっていたのは事実だ。
試しに調べてみると石巻に行くのは思いの外簡単だった。30分後にショッピングモールから最寄り駅へのシャトルバスが出る。そこからは仙石線で石巻までまっすぐ行ける。やっぱり石巻に行くべきなのだ。決まった。私は立ち上がり、腹ごしらえをすべくフードコートへと向かった。

 石巻にはかつて祖母の弟が住んでいた。
祖母は東京に長く住んでいたから、東北にいる祖母の親戚と私が初めて顔を合わせたのは私が大学3年生のときだった。きょうだいたちと東北温泉旅行をするのだと祖母はうれしそうに支度をしていた。たまたま前日に祖母を訪ねた私は失恋したばかりで元気がなく、様子を察した祖母が珍しく旅行に私を誘い、私も珍しく誘いに乗った。祖母と旅行をするのはそれが初めてだった。
祖母にはたくさんの兄弟姉妹がいて、もちろんみんなおじいさんとおばあさんなのだけれど、突然参加表明して初登場した初対面の私をそれはそれはあたたかく迎えてくれた。
大勢で囲んだ夕飯では、これでもかというほどに海の幸と山の幸がどんどん、無限に運ばれてきた。なにもかもがびっくりするほどおいしくて、失恋の痛みも忘れてもりもりとほうばり、おいしいおいしいと繰り返す私に、彼らのサービス精神は止まらなくなった。何せおいしい。それにせっかくもてなしてくれているのだからと私もじゃんじゃん平らげるのだが、負けじと際限なく台所から食べ物が運ばれてくる。胃袋の限界をとっくに超えながらも私は食べ続けてようやく全部の皿を空にできたとほっとしたところで、ダメ押しみたいにデザートのずんだ餅が大量に差し出されたときはコントみたいで爆笑してしまった。
気合いでどうにか必死に食べ終わり(つきたてのお餅はふわふわで満腹を忘れるくらい素晴らしくおいしかった)今度こそ終わりだろうとごちそうさまを言って気が緩んだ瞬間に、じゃあ締めにラーメンでも食べるかね?と聞かれた時はさすがにもう無理ですと降参した。

「きっとヒロシが悔しがるわ」
滞在中、祖母のきょうだいたちに何度も言われた。ヒロシさんというのは唯一その旅行に参加できなかった祖母の弟だ。自慢の弟のようで、きょうだいたちは目を細めながらヒロシさんについて話をしてくれた。スキーがすごく上手で、冬はスクールの先生として大勢のツアー客に教えている、8人くらい乗れる大きな車を持っている、多趣味で話がおもしろい、うまい店をとにかくたくさん知っている、若い人が楽しめるような場所にも精通している。ああヒロシがいたらねえ、佐渡にも連れて行ってあげられたのにねえときょうだいたちは口々にくやしがった。
 それでも私はじゅうぶん楽しんでいた。あったかいし、紅葉はきれいだったし、温泉も気持ちよくて私はひととき辛い失恋を忘れて、みなさんのやさしさと迫力あるおもてなしに癒された。
予定があった私はみなさんよりも一足先に旅を終え、東京に戻ることになった。帰る前の晩にはきょうだいたちが順番に私の寝床に現れてお小遣いをくれた。いやそんないただけません!と返そうとすると「騒ぐんでね!(騒ぐんじゃない)」
と逆に怒られ寝巻きの中にお札を突っ込まれた。翌朝の出発のときも、全員でバスまで見送ってくれた。
 私がヒロシさんにようやく会えたのはそれから数年後、祖父のお葬式のときだった。祖母のきょうだいたちはこぞって東北から上京し、私をみつけると世にもあったかい笑顔で声をかけてくれた。
「この間、俺いない時に来ちゃうんだもんよー」
はじめましてのヒロシさんは確かにきょうだいの中では最も若々しく、きびきびとした調子で話しかけてきてくれた。自分はきょうだいたちとは少し離れた、石巻の海のそばに住んでいて、あのときは仕事があって参加できなかったのだとそのとき教えてくれた。ダイナミックな山スキーや美味しい魚の話に私ばかりか姉や母も目をキラキラさせるとヒロシさんもうれしそうな顔になり、
「いやもうほんとにさ、みんなで一度おいでー。あちこち連れてくから、ね。あんまり寒くなる前に」
「わー、ぜひお願いします」
私たちは言い、その気持ちに嘘はなかったが、祖父のお葬式が済んでみなさんが東北に帰ってしまうとふわりとした約束はぷっつり見えなくなってそのままになった。具体的に連絡を取ったり、日程を決めたりすることもなかった。
 次にヒロシさんや東北のきょうだいたちのことを思い出したのは、その少し後、東日本大震災のときだ。宮城の山のほうに住むきょうだいたちはすぐに無事が確認できたが、石巻の海のそばに住むヒロシさんの行方がわからないのだと祖母は心配そうに言った。石巻は大きな津波に襲われ、街が根こそぎなくなり、多くの行方不明者が出ていると連日報じられていた。ヒロシさんの家もまるごとなくなってしまったらしいと祖母は心配そうに言った。だけど、活動的なヒロシさんのことだから、もしかしたらその時間、どこか別の場所に出かけていた可能性もある。
 ほどなくウェブ上に被災された方のお名前が挙がり始めた。避難所の入り口に掲出された手書きの避難者名簿は模造紙の写真がそのままアップされ、私もボランティアとして夜な夜なデータ化に参加しながらヒロシさんの名前を探した。一方各警察署では死亡が確認された方々の名前も発表されはじめ、ヒロシさんの名前がありませんようにと祈りながらひとつひとつ点検した。
しかし、私が名前を見つけるよりも先に、ヒロシさんが遺体で発見されたと祖母から連絡があった。
 遺体の確認をされた息子さんの話では、ヒロシさんは自宅からの避難の途中で車ごと海に流されてしまったそうだ。大きくて頑丈な車体に守られて、遺体には大きな損傷もなく、本人確認もスムーズで、早い発見にもつながったのだという。
「車、買い換えたばかりだったんだって。ほら、みんながいつ遊びに来てもいいようにってね」
祖母の言葉に私は胸が詰まった。あのとき、遊びに行きますと私は言った。が、言いっぱなしでその後のことは全然だった。適当に調子よく話を合わせただけのつもりもなかったけれど、結局そういうことになってしまった。
「早く見つかって、せめてお葬式がちゃんと出せてよかったよ」
祖母はさびしそうに言った。
それからずっと棘のようにひっかかっていた。せめていつか石巻に行ってみたい。今からではもう遅いけれど、ヒロシさんには会えないしおいしいお店も楽しい場所もわからないけれど。

 塩竈から石巻に向かう仙石線は駅を追うごとに混んできた。本当に海のキワキワを走り続けるこの小さな電車が全線復旧したのはついこの間なのだと乗り合わせた地元の人に聞いた。海の中を走っているような、千尋が銭婆の家を訪ねていくときに乗っていた電車のような、海だらけの美しい車窓に私はうっとりした。
 石巻に着くと、私はまっすぐに海に向かって足早に歩いた。折り返しの電車に乗らなければ新幹線の時間には間に合わない。それまで行けるところまで行こうと思った。
真新しく歩きやすい街並みのところどころに石ノ森章太郎のキャラクターたちの像が立っている。時折重厚感のある石造の古い建物がどっしりとたち、ああこの建物は津波を生き残ったのだなとリスペクトを込めて見つめる。きれいな新築の店舗、プレハブが集まった小さな商店街をずんずん抜けて、ひたすら海に向かって私は歩いた。30分ほど歩いたら水辺が見えた。その辺がタイムリミットだった。
水辺の上にかかる橋の上で、私は手を合わせた。
「こんにちはヒロシさん。ようやくきました。遅くなってごめんなさい」
目を閉じて、つぶやいた。車を買い替えてくれたお礼、美味しい魚を食べたかったこと、どうか安らかに。石巻、初めて来たけれどきれいな街ですね、もう一度会いたかったです、本当に。おばあちゃんすごくさびしそうです。などなど。
「また機会があったら来てみます」
最後にそう言い、私は来た道を引き返した。胸のつかえが少し取れて歩幅が少し広くなったような気がした。
石巻ではガラガラだった折り返しの仙石線は駅を追うごとに混んできて、仙台の少し手前で満員になった。イーグルスのユニフォームを着ている人がたくさんいる。今晩もナイターで試合があるのだ。昨日も負けちゃったからねえ今日もだめかねえ。最近俺が見る試合負けてばっかりでさあ、などとファン同士で和やかに朗らかに話をしている。
エンジ色のユニフォームをきた人たち、これから観戦に向かう人々の笑顔をみていたら、昨晩の試合で流れたイーグルスの球団歌が思い出された。
龍飛崎から磐梯山 羽ばたけ命ある限り
そうだよね。
はばたけ いのち あるかぎり、だよね。
ほろっと涙が溢れてきてあわてて下を向いた。
大きな災害から復活したたくましい電車はコトコトと走り続け、にわかに感傷的になった観光客をもおおらかに包みこんでくれた。

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