守るもの

少し範囲を広げて散歩をしていたら、少し懐かしい人に再会した。
どうも、とお互い会釈した後が続かない。沈黙に困っていい天気ですね、とか言ってしまった。そうですね、と相手は苦笑しながらも返してくれた。
じゃあ、と歩き出そうとしたら相手が意を決したようにやや大きめの声で言った。
「良ければ、またいらしてくださいね。もう大丈夫ですから」

その人はかつてよく通っていたバーのオーナーさんだった。
アルコール飲料も喫煙スペースも一切ないかなり珍しいバーだが、お酒もタバコも酔った人も苦手な私が唯一一人でも通えるお店だった。
広くゆったりとした店内も気に入っていた。入り口から向かって左側のコの字型のカウンターは5−6人いるバーテンダー全員が両手をめいいっぱい広げてもぶつからないくらい大きいし、向かって右側に10卓ほどあるテーブル席も広々、テーブルとカウンターの距離も広々で例えばトイレに行く時なども移動がしやすかったし、他のお客さんの動向が目にも耳にもほとんど入ってこず、大勢の中で安心して一人でぼんやりできる素敵な構造をしていた。
もうひとつ、この店の大きな特徴は音楽だった。カウンターの両端に設置された見たこともないくらい巨大なスピーカーからは様々なジャンルの音楽が常に大きめのボリュームで流れていた。はじめは本気で海外の業務用の冷蔵庫か貯蔵庫かと思った。2台ある巨大スピーカーのうち奥まった方の麓にはレコードやカセット、CDなどの様々な種類のプレーヤーに埋もれるような感じでオーナーが陣取り、忙しく音楽を流し続けていた。ひとつずつ原盤をセットし、くるくると変えながら一曲ずつ店内に流す。映像付きの音源もあり、カウンター背後の白い壁に大きく映し出されることもある。オーナーの前のカウンター席は音楽好きの客の特等席だった。リクエストを出したり、知らない曲やアーティストを教えてもらったり、オーナーと音楽談義放題。私は一度もその席に座る事はなく、たいてい反対側のカウンターに座りオーナーが宝物のようにていねいに音楽を扱うのを眺めていた。
 店は平和だった。グループ客も多くいたが何せ酔った人がいないので大きな声やリアクションを披露されることもない。穏やかに平和に、音楽と会話と雰囲気を楽しむ。アルコールはなくても飲み物も食べ物も種類は豊富で珍しいものも取り揃えてあり飽きることもなかった。ふらりと訪ねてぼんやり過ごしてほどよい刺激と癒しを満喫できる、けっこうレアで大事な場所だった。
 しかし、ある日、事件は起きた。
 カウンターのいつもの席に座った私は、その日はバーテンダーさんと何かの話で盛り上がっていた。多分最近みた映画の話だったかな。そんな大した話題ではなかったと思う。突然、カウンターの奥から激しい怒声が聞こえて私たちは思わず会話を中断した。声のするほうを見遣ると、いつもはプレーヤーに埋もれているオーナーが立ち上がり、真っ赤な鬼のような顔をして誰かを激しく殴っていた。殴られた人はカウンターとテーブル席を仕切る棚に打ち付けられて崩れ落ち、苦しそうな呻き声や助けてくださいごめんなさいと懇願めいた言葉も聞こえてくるがオーナーさんは止まらない。止まる気配もない。崩れ落ちた男性の白いシャツには血が滲んで赤く染まってきているのが見える。すでに無抵抗な男性に気づいているのかいないのか、攻撃の手を緩めないオーナーさんを近くにいたフロアの店員さんが3人がかりで止めに入った。お客さんがいらっしゃいますからというフロアスタッフの言葉にオーナーさんの表情が変わるのがわかった。申し訳ありませんでした。店内のすべての客の視線に向かってオーナーさんは深々と頭を下げた。崩れ落ちて血だらけになった男性はバックルームに運ばれて行き、店に戻ってくることはなかった。
 私の担当のバーテンダーさんはやれやれという表情を少ししてから、サービスですといってフランス製の紅茶のシャンパン(もちろんノンアルコール)をグラスに注いで出してくれた。私はごくりとそれを飲み気持ちを落ち着かせると元の映画の話題に戻ろうとしたが、会話はぎこちなく不恰好になってしまったので早々にお会計を済ませて店を後にした。
 怖かった。殴り合いもそうだが、全体的に。私が楽しんできた平和や穏やかさはオーナーさんの喧嘩の強さに守られてきたのかと思うと、ぎゃーと叫び出したい気持ちになった。男性が何をしてあんなにボコボコにされていたのかはわからない。どこかで酔っ払ってから来店して暴言を吐いたのか?セクハラ?パワハラ?大事な音源に何かしたのか?きっとよほどの理由があったのだろう。怒るのは仕方がないのかもしれない。しかし怒るにしてもとやっぱり思う。あの平和な穏やかさ、貴重な雰囲気を守るためには、ああするしかなかったのか。他に方法があるのか、あったのかといわれると答えは全然ないのだけれど。
 その日からバーには行っていない。なんとなく通っていただけなのでなんとなく足が遠のいてしまったのだ。さっきもう大丈夫ですとオーナーさんは言っていたから、あの日以来同様の事件は起こっていないのだろう。オーナーさんの喧嘩の強さが異分子乱入の抑止力になっているのかもしれない。
 
 これと相似形の話、大きく大きく拡大した先に、不穏な世界情勢を鑑みてミサイルをたくさん買います、というのがあるような気がする。あれも、もやもやする。
他に方法があるのか!と言われると答えに詰まってしまうのだけれどだからって高まった戦闘能力を示すことが果たして最善なのか。そうするしかないのか。戦いを未然に防ぐことになるのか。ミサイルよりもいい仕事をしそうな人、霞ヶ関にはいっぱいいるような気がするんだけど。