感動

 毎日大学や仕事、SNSの情報や日々の生活など、「生きる為に必要」といわれることに触れていると、少しずつ呼吸をすることを忘れていく気がする。

 人に合わせる疲労、ある訳もない無責任な雑踏に耳が傾いてしまう心労、生きる苦労をモロに受けていると、自分の防御力を高めようとしてグッと力を込めて腹筋を硬くするように心の外壁を作っていく。
時々悪者がその外壁に砲台を設置し、人を攻撃できるよう準備もしていく。

 そうでもしないとやってられないのだ。あんなダメージ量を毎日もろに受けていてはいつか死んでしまう気がするし、そんなに回復が得意なわけではない。一つの大事な生きる術だ。

 ただ、防御を高めすぎるとわからなくなることもある気もする。

 ある時、一つのドラマを観た。
 それは人が近くの仲間を支える物語だった。冷たい酷な現実に晒されていても近くに仲間が居てくれれば生き抜くことができる。そんなメッセージが込められている気がした。

 僕はそれに真っ直ぐに感動した。ような気がする。 
 理由を考える前に心の柔らかい部分を包むような、じんわりと温めてくれるような感覚がした。 
 気付くと自分の表情も心なしか柔らかくなったような気がする。眉間のシワも、口角の無理な強張りも、目つきも、頭の中までも全てが柔らかくなったように思えた。

 その後、これって何だろうと考えて、勝手にあの温かさを「愛」と呼ぶことにした。勝手にその呼び名をお借りしているだけで、定義を調べたこともない。

 ただ、直感だがこれは素敵で大事な感覚なんだろうと思う。  
 家族を想うとき、将来の我が子を想うとき、弱っている大事な仲間の背中をさするとき。
はたまた、心を潤わせる趣味や仕事をしているとき。

 それが表に出ようが、上手く表せなかろうが、確かに心の中には生まれている。表現できなくても、それを否定するのは人でもなければ、生物でもない。

 どんな種類の生き物も愛を持って生きている。我が子を守り、愛でる。これは間違いなく本能で、人が作り出した人工的な感覚ではない。

 心はそんな部分を持っている。
ただ、それを自覚できないとそんな大事な柔らかい部分もどんどんと硬めていってしまう。
 この社会に生きていると、誰でもそんな悲しいことが起こりうる。

 だからこそ、心は定期的に柔らかくしてあげなければいけないし、もしも自分が親になったら、その部分を守ってあげられるような親でありたいと心の底から願っている。

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