写真を撮る

 カメラを手に持ち一番目立つボタンをポチッと押す。するとシャッターが切れて正面の風景が1枚の画として切り取られる。

 それは確かにそこにあった風景で、指でボタンを押したその瞬間、確認するとそこには過去が写し出されている。

 人間の受ける情報の8割は視覚と言われているらしいが、「写真」というのは人類が生み出した記録媒体の革命だったんじゃないかと思った。

 まあ、そんな発明の歴史の偉大さにひれ伏すことは置いといて、ついさっき「なんでみんな写真を撮るんだろう」と思った。

 Instagramが登場して以降、写真を撮るのはもはや当たり前のような風潮が出てきた。

 インスタもやらないひねくれ者だったので、基本的に「カメラ越しの景色なんかより網膜に直接景色を映せ、脳に記憶させろ」と鼻息を荒くして言いそうになっていた。(もしかしたら記憶にないだけで言っていたかもしれない)

 ただ、最近、脳に「おやおや?」と思うことがある。
 昔見た綺麗な景色も、他人との写真も、全部が必要以上に美化されている気がするのだ。

 滝を観に行った。でもその大きさや滝壺の飛沫の感じをなんとなく覚えているだけで、岩や砂利の険しさも沢付近の滑りそうな岩肌も自分が一番綺麗に見える姿で記憶されている気がする。

 夜の海を見た。九十九里の砂浜のどこまでも続く砂浜と真っっっ暗で何も見えない海に深い何かを感じたが、横の防砂林の鬱蒼とした夏のやかましさや、監視員の椅子の高さなどは思ったよりも小さな迫力で小綺麗にまとめられている。

 「写真を撮る」、それをすればその生々しい迫力は間違えることなく保存される。いつの間にか美化されたり、無かったことにされることなく確かなその景色を残すことができる。

 そう考えると写真を撮るって表現は妙に緊張感を覚えるものだと錯覚する。
 「事実は小説よりも奇なり」というけれど、写真は映し出された風景の歴史を間違いなく残すものだ。それは誤魔化されることもない記録。
 それを見るたびに人は「あっ、こんな歴史だったんだ」と記憶を正しく呼び戻すことができる。

 写真に撮っておきたいもの、それは「2度と来ない気がする景色、自分が『どうしても覚えていたい』と思う景色」なのではないか。

 と、自分で撮った無加工の綺麗ではない写真を見て思ったりした。

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