大学職員は楽で高給? when my young〜若き日のぼく①

大学職員は楽で高給。この言葉が現れるとぼくのタイムラインはにわかに落ち着きを失う。皆、それぞれ仕事に誇りを持っているので、一般化されることに我慢ならないのだろう。かくいうぼくも、ちょっと心がざらつく。

実際どうなのか、というのはこの際ぼくにとってはどうでもよかった。薄情なようだが、「情報の価値は受け手に委ねられる」というのがぼくの徹底した持論なので、誹謗中傷、暴言でさえなければ何を発信しようと人の勝手だ。いわんや、それによる金儲けをや。

そういう情報を見て業界を志す人がいたって別にいいと思う。その人は楽であること、高給であることを信じ、価値を見出したのだ。かくいうぼく自身、実をいうとファーストキャリアに大学職員を選んだ理由のひとつには「ヴァイオリンの趣味を続けやすそう」という魂胆があった。

入職してから、少しだけ考え方が変わった。

はじめに回されたのは財務系の仕事だった。先生方の物品購入や出張の処理のために大量の伝票を作っていた。大学の研究費は、常に用途に説明責任がともなうので、買って大丈夫なものか、本当に出張に行ったのか、など様々なことを確かめる必要があった。とはいえ基本はマニュアルに基づくルーティーンに違いなかった。

入職したその日、学長さんから辞令をいただくと、配属先の係長さんが迎えに来てくれた。ぼくに仕事のイロハと哲学を教えてくれた、今でも尊敬している上司のひとりだ。「しばらくは帰りが遅いから覚悟してな。ごめんな」係長さんはぼくを連れて部署に向かう途中、ポツりと言った。ぼくはわかりやすく狼狽した。

それは仕方のないことだった。どこの研究室も、どうしても予算の執行は年度末に集中する。当時は繰り越しができず、ぴったりゼロにしなければならないお財布もあったため、調整するための買い物もあった。ぼくは配属したその日から会計ソフトの基本的な使い方を覚え、すぐさま大量の伝票を処理するロボットになった。

かくしてぼくは少なくとも、決算が終わるまでは家でヴァイオリンを弾くことはできなかった。新卒だったぼくを係長さんはなるたけ早めに返そうとしてくれたが、それでも最後の最後はやはり終電まで残ることになった。ぼくが帰ったあとも係長さんたちは残っており、聞けば、車通勤の職員さんが家まで送っていたりしたらしい。タクシーは使うことができなかった。

藤の花が奇麗に咲く頃、ようやく仕事は落ち着いた。次の会計年度が始まったのだ。先生方から届く購入依頼書が山積みになっていたトレーも、そのころにはすっかり綺麗になっていた。係長さんも「もう大丈夫だから、好きな時間に帰っていいからな」と言ってくれた。

それからぼくは家で毎日ヴァイオリンをさらった。この頃は大学の仲間と室内楽の企画をしたり、オペラにいそしんだりしていた。社会人になってはじめての本番は、ブラームスのピアノ四重奏の第1番だった。大好きな曲だ。あの時のメンバーでもう一度演奏することはもう二度とないだろう、ということをぼくはもう薄々気づいていた。

会計の仕事は、総じて嫌いではなかった。民間企業につとめたことがないので比較はできないのだが、とにかく大学での会計処理はたくさんの鎖にしばられており、先生達はかなりの苦労をしていた。ぼくは、先生方が少しでも楽になるよう、工夫を凝らすことでルーティーンの中にも自分なりにやりがいを見出していた。

2年後、異動の辞令が出た。今度は学務系の部署だった。おそらく、大学職員と聞いて多くの人が真っ先に想像するタイプの業務をするところだった。実際には、先の財務や総務人事系、研究支援など、大学職員の大半の仕事は学生さんからは見えないところにある。

学務系に配属と聞いて、実はぼくは少なからずショックを受けた。人事にウワサはつきものだが、「優秀な人は財務や総務に回される、学務に行くのはちょっとワケありの人」というのがまことしやかにささやかれていたからだ。ぼくは、自分の2年間のがんばりは評価されなかったのか、と落胆したものだ。

しかし、この学務係での仕事こそ、今の自分を決定づける大事な大事な2年間になるということを、ぼくはまだ知る由もなかった。

次回へ続く

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