市ヶ谷のことが思い出せない

市ヶ谷のことが思い出せない。

正確に言うと、市ヶ谷駅を見るたびに「飯田橋」という名前が脳内にポップアップしてきて、と同時に「いや、そうじゃなくて」と思うのだけれど、そのあとの言葉がどうしても出てこない。

市ヶ谷駅は自宅と職場の間にあって、電車だろうが自転車だろうが必ず通る。だから出社していたころは毎日目にしていたはずなのに、そのころから一度も脳内に定着しないまま今に至る。

今でも月に数度出社するタイミングで市ヶ谷駅の前を通る。市ヶ谷駅が見えはじめたくらいのタイミングから「なんだっけな~」と思い出し始めるのだけれど、毎回思い出せないまま駅の目の前まで来てしまい、あきらめて駅名の看板を見る。「市ヶ谷、か~」と思う。駅名が分かってうれしいわけでも、思い出せなくて悔しいわけでもない。そのくせ思い出せなかったことだけは忘れられず、懲りずに次回また挑戦する。でも一向に覚えられない。市ヶ谷。

なぜ「飯田橋」が先に頭に浮かぶのか、ということについては心当たりがある。大学の先輩の実家が確かその辺で、ことあるごとに「人生どうでも飯田橋」とツイートをしていたからである。その人の実家には行ったことがないし、なんなら飯田橋駅を利用した記憶もない。でもそのツイートが記憶に残っていたために、実際に飯田橋駅を通りがかったときに「ああ、あの…!」という確かな実感があったんだと思う。その実感によって、脳内に「飯田橋」というフレーズは居を構えることになった。

対して、市ヶ谷駅については、利用したことはあるものの多分市ヶ谷駅の改札を通ったことはないのではないか。乗り換えで駅構内を歩くことはあっても、あの駅の外観を見て、改札を通って、電車に乗るという体験がないものだから、実体と経験が結びついていない。大学生のころに東京ドームで嵐のコンサートを見た帰り、水道橋駅の混雑具合が嫌で一駅歩こうと思い、市ヶ谷駅まで歩いた。でもそこでも何となく乗る気がしなくて、結局四ツ谷駅まで歩いた、ということがあるくらい。駅舎よりもその上にあるカフェテリアのほうが印象に残っている。自転車で通勤するようになったこともあり、駅周辺の景色ばかりが脳裏に焼き付いている。四谷方面と九段下方面へは上り坂、皇居外堀に架かる橋は下り坂(駅から見て)。

そう、橋があるのだ、市ヶ谷駅には。それを言えば飯田橋駅にももちろん橋はあるのだけれど、ぱっと見の「橋」感は市ヶ谷駅前の市ヶ谷橋に軍配が上がる。水面が左右に広がり、この水面を渡るために架けられたことが一目瞭然だ。翻って橋としての飯田橋は地上にいる人から見ると、橋ではない。五叉路であり、あろうことかその上にさらに歩道橋が立っている。あれはドデカ交差点であり、決して橋ではない。今書いていて、これが最大の理由なのではないかとも思えてきた。

毎回毎回「思い出せるかな~」と思っているのにもかかわらず、それは移動中の脳の暇つぶし、くらいのことなので、「市ヶ谷が覚えられない」という気持ちをきちんと家まで持って帰ってきて、こうして文章になるまで3年以上の月日が経過した。さすがにこれだけ「市ヶ谷」という言葉を書いたのだから、さすがに覚えたのではないかと思う。でもこれが次回出社時にまた忘れていたとしても、うれしくも悔しくもないのだと思う。そんな感慨めいたものから一番遠いのが市ヶ谷駅なのかもしれない。

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