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書く練習(4/12)

「お疲れっした!」
四方から缶ビールの開く音がする。私は一口だけビールを飲むと、その美味しさに思わずおいしいと呟いた。最初の一口を終えると、皆次々に自分のタバコに火を付ける。店長の吐き出した甘ったるいピースの匂いに包まれる。この先ピースの匂いを感じるたびに、私はこの時間を思い出さなくてはいけないのだろうか。

自由が丘にあるレストランでアルバイトしている私の職場では、お客さんが全員帰った後、店の締め作業に取り組む前に10分間ほどタバコ休憩が挟まれる。店長が気に入っている社員やバイトの人がいるときだけ、その時間に加え特別に、ジャンケンがある。全員参加のそのジャンケンは、負けた人が全員分のビールを奢り、近所のコンビニまで買い出しに行くというもので、私はなぜか負けたことがない。いっそのこと負けて、笑い者にされてしまった方が気が楽なのにとすら思う。今日は谷くんが負けた。任せてくださいと言い買い出しに行った谷くんはビニール袋に6本の350ml缶ビールを入れて戻ってくる。「袋貰うの。」と笑われる。一見アットホームな職場だよなぁと思いながら、雑談にふける店長とバイトの先輩の3人を見ながら思う。私はその雑談に混ざれない谷くんを見た。谷くんは、タバコも吸わず、携帯もいじらずただひたすら曖昧に笑みを浮かべて他の人の話に相槌を打つばかりだった。

このタバコ休憩、店長に好かれても気に入られてもいない私にとっては時給が発生する休憩なので、話に加われない少しの居心地の悪さを除けば悪いものではないはずだった。しかし、タバコ休憩とは名ばかりに、いつしかこの時間は店長の嫌味を10分間聞く時間となっていた。というのも、谷くんは正直あまり仕事ができる方ではなく、その谷くんを営業中もネチネチネチネチ攻撃している店長ではあるが、この時間を使って谷くんに追加でイヤミったらしく攻撃するのが定番の流れとなっているのだ。

「今日の谷少年も面白かったよ〜。俺とね、谷でね、ルールを決めたの。忙しい時は洗い物は後回しで流しに皿を重ねる。その時に、重ねやすいように皿の大きさで場所を決めようってね。」
私に4回、谷くんに100回、目を合わせる度に注意してくる洗い物の話だ。
「でね、谷少年はね〜。期待を裏切らないね。さすがだと思っちゃった。」
わざとらしく勿体ぶって、少しずつ谷くんの人格を否定する。何したんですか、と笑いながら聞くバイト達。
「俺が少しキッチンから離れたでしょ。2階のヘルプ行く時に。で、帰ってきたら、お茶碗あるでしょ、ご飯出す。あれが、もう、倒れる寸前まで積まれてて、もうね、こう!」
そう言いながら腕を斜めにして大袈裟に話す。その時間は各階が忙しかった。私も1階のフロアに出ながらてんてこまいだったことを思い出す。谷くんはフロアとキッチンの間にいて、飲み物を作ったり、洗い物をしたり、まあそのほか諸々の各所の手伝いをする係だ。今日は谷くんの目立った失敗はなかったし、むしろ他の階が忙しければ率先して手伝いに来ていたと思う。私も、予約をしていないお客さんが来てテーブルをリセットしなければいけない時、谷くんに助けられた。洗い物が溜まっていたのも、あなたとの約束のはずだった。
「もうね〜。ピサの斜塔かと思ったよ。も〜あれは笑ったね。忙しくて、笑っちゃった。あそこがイライラのピークだったね。」
「えっ?どこが、いけなかったでしょうか?」
控えめに谷くんが口を挟む。よく分からず「さすが谷〜」と笑っていたバイトの先輩も曖昧に「おまえ〜」とか言って返事をしない。
「いや、お前、そんな高く積み重ねなくても。2段にすればいいじゃん。そんなこともわからんかい?」
谷くんは呆気に取られたような顔を一瞬だけ見せるが、すかさずイジられモードに変わり、「そっかぁ〜そういうことかぁ。いやぁ、聞いといてよかったぁ。」と口にした。

話は変わり、諸先輩方のタバコは2本目に突入するが、話題は谷くんのことしかない。
「谷ぃ…太った?」
先輩のうちの1人が言った。私はあまり気にならなかったが、言われてみれば細くて折れそうだった谷くんも普通の人くらいにはなったかもと思う。その一声を皮切りに、あちこちで谷くんがもう中年に差し掛かっているという話が盛り上がる。私と同じ22歳にして。そして行き着くところは店長の加齢によって感じる業務の大変さ、巡り巡って谷くんの気に入らないところになるのである。

休憩も終わり、谷くんは私のヘルプで1階の締め作業に入った。2人になったとき、私は谷くんに声を掛ける。
「まあ、店長、ああいうけど、気にしなくていいと思う。言いたいだけだと思うし。」
「でもさ、言われるってことはよくないことなんだよ。気にしなさすぎなんだよね。僕が。」
また谷くんは申し訳なさげに笑った。
「今日、谷くん別に悪かったところなくない?ヘルプにも気づいたら来てくれたし…」
「あはは、そっか、ありがと。」
谷くんは私にお礼を言った。
「味方…っていうと、みんなが敵みたいになっちゃうか。なんだろ。あっちゃんとか普通に僕に話してくれるし、そういう人が1人でもいるってだけで、僕結構平気だから。」
谷くんはこう言って業務に戻った。いつも申し訳なさそうに笑っている谷くんが、全く笑わずに真剣な顔で喋ったのを見たのは初めてで、私は妙にグロテスクなものを見た気持ちになった。

業務が終わると、タイムカードを切る。いつもはここで賄いを食べて帰るのだが、谷くんはいらないと言って帰ろうとしたので、私もついて帰ることにした。店を出て駅まで、無言で歩く。私も谷くんも普段からバイト先では口数が少ないので、2人でいても喋らないことなどザラにある。谷くんのそういうところを私は気に入っている。駅まで着くと、私は手にしていた先の残りのビールを飲み干すとゴミ箱に捨てた。ビールの缶がゴミ箱で乾いた音を立てる。谷くんも続いてビールを捨てる。谷くんの缶はゴミ箱に落ちて鈍い音を立てた。
「じゃあ、お疲れ様。」
谷くんは私にそう言うと、猫背に東上線のホームへ消えていった。



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