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Amazonアソシエイト対応、あと自己憐憫

ここでも何回か書いたことがあると思うが、私は以前はてなブログの方で活動していた。

はてなブログは大学生の時に初めて、基本的には今のnoteと同じように毎日更新していたが、メンタルを崩したりモチベーションを失ったりして、更新が断絶したり不定期になったりするようになり、最終的に全く更新しなくなってしまった。

一応300以上の記事があり、元々ブログで飯を食おうと画策していたこともあって、Amazonアソシエイトの審査に合格し、極々稀に僅かな広告収入を得ることがあった。
私が初めてインターネットでお金を得ようとしたのがこのタイミングであり、記事の閲覧数が伸びて喜ぶこともあれば、継続した日数に比した成果の少なさに虚しさを感じることもあった。
年単位で活動して報酬は合計で1000円程度だったのだ。「インターネットを使って飯を食う」ということに失望せずにはいられない。
当然、自分の書きたいことだけを書いて、記事を伸ばす工夫や商品を買ってもらう工夫を欠いた怠惰な私に責任がある。
この手の事業で成功しているのはほんの一握りの人間だけであるということは承知の上だったが(あるいはそう自分に言い聞かせることで自尊心を守りたかったのかもしれない)、いくら書いても収入がないのは、記事の更新に対するモチベーションを低下させる致命的な理由になったはずだ。

今日、ふと思いついてnoteでもAmazonアソシエイトが使えないか調べてみた。
どうやら普通に使えるらしい。過去に審査は通過していたので、私のnoteのURLを登録フォームに放り込むだけでここでも広告を貼ることが可能になった。
早速、私が「これはよく書けている記事だな」と思い、かつAmazonの商品を紹介しうるような記事数点にリンクを貼ってみた。

私がはてなブログからnoteに活動場所を移したのは、メンタルが復調し、生活がある程度安定したからというのもあるが、第一の理由は「ある種商業的な努力を必要とする広告事業よりも、自分自身の文章を応援してお金を出してくれる人を見つけたい」というものだった。noteのサポート機能をあてにしていたわけだ。
ここに毎日投稿し始めてそろそろ半年が経ち、記事数は180弱を数えるようになったが、結局分かったのは「場所や方法を変えても適切な努力が必要なのは変わらない」「文章のみでサポートをしてもらうために必要な魅力が自分にはない」ということだった。

虚しさが日々蓄積されていく。莫大な数の人間が存在するインターネットに身を晒してみて、莫大な数の人々が私に無関心であるということを悟る。
当然といえば当然だし、普通に暮らしていくのに莫大な数の人々の関心なんて不要なわけだが、もはや私は多くの(そして実際にはごく少数の)「インターネットで成功している人間」と自分を比べずにはいられないのだ。

私は人気者になりたいのだろう。面白いと言ってほしいし、好きだと言ってほしい。承認に飢えている。
しかし人気者を志す人間がインターネットを場に選ぶのは悪手だ。承認が欲しければコミュニティは小さいほうがいい。内輪でしか輝けなかろうが、内輪で輝いているうちは人気者でいられるし、それを維持するのも志す限りであれば難しくはないはずだ(これは一定のコミュニケーション能力をもっている人間の傲慢かもしれないが)。
インターネットは、それ自体を名詞として指すのが本来困難なほどに茫漠とした環境だ。その割に、自分以外の人気者を見つけるのは容易い。人気者を志す人間が嫉妬や劣等感に駆られるのも当然の話だ。

今日、Amazonアソシエイトをnoteに導入したことで、私は人気者になれないことに対する免罪符を手にした心地である。
私自身に魅力がなくとも、適切に商品を紹介していさえすれば一定の成果が見込める(かつて年単位で努力して1000円程度だった成果であってもだ)。
私はこの後投稿ボタンを押して、今日の更新を完了する。明日もきっと何かしら記事を捻りだすなり捏造するなりするだろう。そうしているうちにまた年単位の時間が経つかもしれない。

私の惰性に基づくルーチンワーク的なこの努力がどのような結果になるのかは今日の私には知る由もないことだが、試みるからには良い結果を夢見る権利があるだろう。
私は怠惰で、努力が嫌いだ。自分の手の届くことしか決してしようとはしない。そのくせ手の届かない高みを見ずにはいられない、哀れな気質である。
私は怠惰で、他の「まとも」な人々よりも多くの時間惰眠を貪っている。眠っている限り、夢を見ずにはいられない。
哀れな奴である。

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