新時代の扉|感想【編集中】

ウマ娘に望むすべてがそこにあった。
灰の怪物の物語にしかそれはないと思っていた。

シノギの削り合いと、赤々と燃える魂の衝突。
新時代の扉はこうあってほしい、ウマ娘とは、彼女らの輝かせ方はこう描かれていてほしい。
そのような望みを余すことなく描き尽くされていた1時間48分だった。

アグネスタキオン|可能性の先を求めて

走査線が走る独特の瞳ゆえに、どこをどう捉えているの掴みにくい彼女のまなざし。三白眼どころか四白眼のその瞳は、しかし確かに主人公ジャングルバ……
ジャングルポケットを捉えていた。

物語はえてしていくつか軸があるが、真意を捉えがたい謎めいた眼を瞬かせる彼女、アグネスタキオンの見事なヒールっぷりにはどれほど興奮させられたか知れない。彼女のその存在は間違いなく軸であり、新時代の扉を開く柱だった。
まさに狂気。
決してその眼のような、表面にある要素だけが特異なのではない。
この世を当たり前に生きていながら、その謎まみれの存在、「ウマ娘」の実体とは一体何か。
素朴な視点から始まったであろうタキオンの疑問がその「可能性」の着目に発展していくにあたり、そう長い時間はかからなかったに違いない。
ヒトをはるかに上回る身体能力はどこから生まれるのか。それを科学的に解剖し、ウマ娘が持つ能力を限界を知り、そして超えるためにできることは何か。それは、当初の疑問がたどり着いた境地「ウマ娘はどこまでいけるのか?」=「ウマ娘の可能性とその先」を追い求める狂気に染まっていく。

アグネスタキオンというウマ娘は、この「ウマ娘の可能性のその先」に、どうしようもなく憑りつかれた存在である。

学園の実験部屋を爆破し、怪しげな実験品を目の前で振りかざす日々のいざこざはその一端に過ぎない。仮にも科学者のはしくれであるタキオン。頭脳とそこに備わる知見については並のドクター以上であろう一方、研究という手法の扱い方は閉口せざるをえないところがあり、科学者と呼ぶにしても“仮にも”だの“はしくれ”だのを付けざるをえない。こんな研究態度で論文が書けるというのだからやはり天才なのかもしれないが、そんな彼女にも備わっていた科学者的態度は、よりによって一般的な感覚にならう類のものではなかった。
タキオンにとっては「ウマ娘の可能性のその先」を見つけることが至上目的であり、自身の強化はそのいち手段に過ぎない。「可能性の先」さえ示せれば、自身の強化は絶対の手段ではないのである。だから、目的達成のために強化される対象は、彼女にとっては「必ずしも自分である必要がない」。
目的達成のための最良の実験台が自分自身であると判断していただけで、状況が変わればアグネスタキオンという名の1つの実験体は、目的達成のためにより条件のよいものに「交換」する必要がある。

皐月賞の故障をもって、アグネスタキオンは自身を「最適な実験台」に不適当の烙印を押した。

タキオンが走り始めたころは、彼女並の走行能力を持つウマ娘はおらず、タキオン自身が最良の実験台だったのかもしれない。しかし、彼女が皐月賞を走るころには、同世代という範囲に限っても、可能性のその先を見つける手段として「アグネスタキオンに代替可能」なウマ娘が台頭していた。
意図的である場合を除き、健全性が損なわれたモルモットは実験動物にふさわしくない。健全性の喪失が試験結果に影響する要素は、実験そのものとしてはノイズ以外の何物でもないからだ。
彼女としては、故障により健全性を損ねたアグネスタキオンという被検体は試験に不相応であり、至上目的の達成には不適当と考えたのだ。
安全性を確立しているかどうか明らかに怪しい薬品を他人に飲ませたがるくせして、こういうとことは冷酷なほどに科学者の思考である。不適当な被検体を酷使して正確性に疑問のある実験結果から不完全な結論を導くより、自身は収集・実験・解析に注力し実験台は新たに用意した方が高効率と彼女は考えた。そもそも彼女がトレセン入りしたのは、その目的のための被検体が豊富に収集できる場所を求めてのことである。高等部の彼女がトレセンに在籍できるのはたった3年。それに身体能力のピークを迎える本格化の時期はそれよりももっと短い。タキオンがこぼした「時間がない」の言葉は、タキオンにしか理解できない判断基準による方便ではなく、事実といって差し支えない。

あれほどの戦績を引っ提げておきながら、故障があったとはいえわずか4戦での実質的な引退宣言。中央芝でGⅠを勝つような強豪は大切に使われるために出走回数は控えめになるとはいえ、7冠馬シンボリルドルフですら16戦走っている(時代は違いすぎるけど)。一見するととても考えられない判断を自らに下したアグネスタキオン。案の定世間は困惑一色となり、それは同じ時代を駆けるウマ娘であれば比較にならない衝撃だったが、いくら非常識なタキオンとてそのような反応が待ち受けていることは承知だったと思う。

むしろ問題なのは、可能性の先を見つけるという目的のために、何もかもかなぐり捨てるその狂気にある。アグネスタキオンという自分自身の可能性も、そんな自分に向けられていた期待も、そして自分を打倒せんといきり立つライバルが一矢報いる機会すら。そして本来理性で制御しうる代物ではない、ウマ娘の純粋な本能―「走り競いたい」という原初の欲求をも打ち捨てて。

ウマ娘の可能性のその先を見つける至上目的のために、自分と周囲の大切なものをなげうってでも、手段など択ばずそれを追い求め邁進する。
これを狂気と言わずしてなんと言うか。まさしくアグネスタキオンの本質であって、何を隠そうわたしがアグネスタキオンというウマ娘に惚れ込んだ元凶でもある。

しかしながら、可能性のその先に憑りつかれたタキオンは、当初自分を最良の実験台と選定したゆえに、その最良の被検体を目的達成の手段という意味で徹底的に鍛え上げた。
かくして狂気で鍛えたその走りに、追いすがれる者はいなかったのである。
その走りの描写がなんとまぁ素晴らしいのなんの!
四肢を弾丸のごとく飛ばすスピード、レースという精神世界、それらを余すことなく描画する表現の凄まじい奔流。表現のオンパレードゆえに逐一言葉で並べていくことができないことが非ッッ常に口惜しいが、このレースシーンを全編に渡って貫き通したことは万感の思いを湧き出させるのに余りある。
圧倒的であった。ジャングルポケットを「今の俺はアグネスタキオンに勝てるのか」という長い長いたらればの袋小路に陥らせるには、あまりに十分すぎる激走だった。
可能性の先を追い求め、爛爛とゆらめく眼でひたすら前を見据えるタキオンのその表情、走り、精神性。まさに、私がタキオンに追い求めてきた狂気、ないし狂気の奔流。アグネスタキオンはかくあるべきを、この3戦で完全に示してしまったのだ。

「その馬は、わずか4度で神話になった」。
アグネスタキオンにまつわる半ば代名詞として取りざたされる「神話」の2文字。もう我々の目には捉えられないかつての最強伝説は、目前にいたその最強の陥落によって宙を舞う。同時に、その最強は目の前で神話に成り下がり、抽象化され捉えようになくなった神話を超えるべき相手として追いすがり続けなければならない。それは、追う者にとってはあまりに酷というほかない。
かくして彼女に辛酸を舐めさせられたジャングルポケットは、いつのまにか自身の目的にすり替わった神話を超える試みとどう決着を付けに行くのだろうか。

次→ジャングルポケット|真に超えるべきは神話か、自分か

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?