名前のつけ方で、わかること。(通称問題)

どういう名前をつけるかということで、見えてくることがある、というお話です。

わかりやすい例として「悪魔くん事件」があります。

これは、親が子供に対して「悪魔」という名前をつけようとして、役所がそれを拒否したという事件です。

これは最高裁判所まで争われたのでご存知な方も多いかと思いますが、この事件に接して、多くの方は「悪魔」という名前を子供につけた親の事がとても気になったと思います。

「ひどい親だ」とか「リベラルだ」とか様々なご意見もあるかとは思いますが、斯様に名前をつけるという行為は、無色透明ではあり得ず、そこに一種の「思い」や「政治」があるわけです。

名前をつけるということについては、ソフトウェア設計の師匠から「アーキテクトの仕事は名前をつけること」と指導してもらってから、折にふれて気になっていました。

nomyneというネーミング検索を開発してから、僕の名前つけに関する興味は加速をしました。

結論から言いますと、名前には羈束力があり、名前をつけるということはずばり権力であるということです。

学生時代は宗教学も勉強してましたので、そういう観点から名前をつけることを考えますと、すでにある現象に対して名前をつけることは「神(しん)」の始まりですし、現象のないところに名前をつけ、現象を生じさせることは「魔(ま)」です。

人は死ぬと物理現象としては消滅しますが、死人に名前(戒名、諡号)をつけることによって「鬼(き)」になります。

斯様に名前を付けることは人類営為にかなり古くから影響を及ぼしていまして、多くの場合それは呪術的な要素を孕んでいました。現代社会においても、決して看過できないことだと思ってます。

私生活においては名前をつけるということは滅多にあることではありません。

まず大きなイベントとしては子供に対する名付け。友人のニックネーム。ペットの名付け。などなどの例がありますが、今風に言えばどれもかなりマウンティングな行為だと思いませんか?

陰陽師とか言霊とか、そういうのが好きな人はご存知かもしれませんが、名前をつけるという行為はある種の支配関係、主従関係、主客関係を作ります。

現象(対象)に名前をつけるということは一種の支配宣言でもあり、昔は本当の名前(真名・マナ)を呼ぶことすら憚られたと言います。

話を現代に戻しますと、仕事生活以外では案外名前を付ける機会は多いです。

起業をすると、もちろん商号・屋号は必要です。部署名もありますし、チーム名、プロジェクト名などなど、名前を付ける機会はそれなりにあります。

そして、それらは全て何らかの支配関係の結果であり、新しい支配関係を作る原因になります。つまり「因果」なのですね。

ちなみにソフトウェア設計などは名前付けの連続なわけでして、これが実に面倒なのです。

わかりやすい例で言えば、フォルダの名前付け。

自分のパソコンの中のフォルダであればさしたる問題もありませんが、これが共有するファイルストレージの名前付けとなると、途端にそこに色々なものが顕れます。

例えば営業部が使うフォルダを作るとしましょう。

「営業部」「営」「01営業部」「Sales」など様々な候補がありえますが、だいたいは既に同じ階層にある別の部所のフォルダにあわせますよね。他に既に「開発部」「企画部」などのフォルダがありましたら、「営業部」としてしまいます。

つまり空気を読んでしまうのですが、これが空気ではなく、最初にフォルダを作った人(たとえば「企画部」)に従わざるを得ないということであれば、それは誰かしらの名前付けの羈束力に支配されていることになります。

もし仮に、この名前つけの規則がバラバラであれば、「かなり部署間の仲が悪いのかな」と勘繰ってしまいます。またチームが日本語話者で固められているのなら良いのですが、そうでない場合フォルダに日本語名をつけていたとすると、名前をつけた人は「よほど頭がまわらないのか」「外国人に特別な感情があるのか」とか勘繰ってしまいますよね。

「名前なんて何でもいいよ」というのは、素朴主義的には好感がもてますが、場面によっては無責任な行為でもありえます。

現代社会においてはあいも変わらず、名前付けは権力的な行為なのです。

なので、「名前なんて何でもいい」ではなくて、名前をつけるという権力的行為の責任性から目をそらさずに、適切な名前をつけること苦悩するのが、人の有り様としては格好が良いとおもいます。

え?言い過ぎ?考えすぎ?

そうかもしれません。
ただ、ソフトウェア設計は名前付けの連続です。
しかもその名前がチームメイトの生産性に直結しますので、「名前なんてなんでもいい」なんてことをすると、データベースのカラム名が0001, 0002, 0003などと恣意性=コンテキストを排斥したものになると、、、悪夢ですよね。

長々と名前つけにまつわる話を書きてきましたが、最後にアンチパターンをご紹介したいと思います。

それは「通称問題」です。

世の中には適当だけど適切でない名前があります。
それは「長い名前」です。

長い名前というと、落語の「寿限無寿限無、、」が思い出されます。

有り難い言葉を詰め込んで、息子が幸福になるようにと思った親の心は一概には否定できませんが、過ぎたるは猶及ばざるが如しでありまして、長すぎる名前は如何なものかというのは古今東西変わりなく。

で、足元に目を向けますと同じような問題は結構あります。
例えば、先端技術を用いて二酸化炭素削減を目指すプロジェクトがあるとします。
そのプロジェクト名を素直というか、率直というか、バカ正直につけると
「二酸化炭素削減応用技術適合方式検討作業部会」みたいになりまして、これを正式名称とするのは良いですが、通称を決定せずにいると、「寿限無寿限無、、、」のように毎回お経を唱えなければなりません。
一般的にはこのような場合通称も決めておくのですが、そこには様々なパターンがありまして、それによってその作業部会のあり方がちらっと見えてくるのかなとも思います。

パターン1 二削技部会
漢字の頭文字を組み合わせた略称パターン。
そこに恣意性は低く、リーダーシップの発露は見られない。官僚的な組織であることが伺われる。
無難なアウトプットが期待できる。

パターン2 COT-WG
英語の頭文字を組み合わせた略称パターン。
多分英語がかっこいいと思っているが、本質的には二削技部会と変わらない。
英語を使うというレベルでしか個性を発露できない悲しいパターン。

パターン3 グリーンプロジェクト
教科書通りの別称パターン。「エッセンシャルなネーミングで行きましょう」みたいなリーダーシップが働いたパターン。悪くはないが、グリーンだけだと何をするのかは結局は不明。グリーンには環境以外にも様々な意味はある。
これが「エッセンシャル」で「わかりやすい」と思うの所詮自己満足でしかない。

パターン4 コードネーム「ウルフ」
「ウルフって何ですか?」「そのツッコミを待ってたのよ」というバカバカしいパターン。
どうせわからないんだったら、ウケを狙おうというのか。
こういうネーミングがまかり通るのは、リーダーシップを通り越した単なる我儘気儘。

さて、名は体を表すといいますが、名前の付け方によって、その嗜好性であるだけでなく権力構造のようなものまでちらっと見えてくるのは面白いところだと僕は思います。

アンチパターンとして並べてしまいましたが「じゃあベストプラクティスは?」というと、そこはなかなかに難しい。
このプロジェクトが成功すれば、結果として「良い名前」ということになりますし、プロジェクトが失敗すればどんな名前であれ「良くなかった名前」として刻まれてしまいます。

名前つけについてはまだまだネタはありますので、またの機会に。

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