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繰り返しの悪魔(宗像大島)


inspired by:
本田済『易』
竹内照夫『四書五経入門』
池澤夏樹訳『古事記』
太神美香・宗像市世界遺産登録推進室『海の民宗像』
和多奈『リトルリトウ 宗像大島編』
ただならぬおと「紗織りの空のこと」

宗像《むなかた》の大島を観光した。

「観光」という言葉は美しい。
その言葉は古代中国の書物『易経』に由来する。
『易経』は占いの手引書であり、かつ森羅万象を説く思想書。
そこでは「天・沢・火・雷・風・水・山・地」の8属性を
上下に組み合わせることで、未来を占う。
たとえば上部に「風」の相、下部に「地」の相が出たら、
これは風が大地の上をあまねく吹き渡っていくイメージを表す。

各属性の組み合わせは8×8、全部で64通りある。
それぞれの組み合わせには名前がついていて、
たとえば「風」と「地」の組み合わせなら、その名は「観」。
「風地観」——大地を風があまねく吹き渡るように、
広く見渡し、眺めているという相。

「風地観」と聞くとき、中国の草原の小高い丘に立って、
どこまでも続く緑の風紋を眺めている様を、僕は想像する。
占いでこの「風地観」の相が出たら、
たとえば何かを見つめたり、見返したり、
見て回ったりするとよいのかもしれない。

『易経』には「風地観」の相についての詳しい解説がある。
曰く、「観国之光、利用賓于王」。
「国土に光り輝くものを見る、
そうしてその国の王に仕える」
——みたいなこと、たぶん。
「観国之光」——観光という言葉はここから来ている。

つまり観光とは、ただ有名なものを見物するだけでなく
「そこに光り輝くものを見ること」を、字義の内に秘めている。
その光は、ときとして建造物であり、
ときとして人であり、ときとして文化であり、
ときとして自然であり、ときとして伝承であっただろう。

大島の古い伝承は、
日本最古の文献のひとつ「古事記」にも載っている。
こんな話。

『——イザナギの子、スサノヲは国を治める仕事もせず、
黄泉の国にいる、死んだ母親に会いたくて泣いてばかりいた。
すると父親のイザナギに「そんなに母親に会いたいなら
国から出て行けば?」とキレられた。
しょうがないのでスサノヲは国を追放される前に
別れの挨拶をするため、姉のアマテラスを訪れた。
しかし素行の悪いスサノヲは姉からも信用がなく、
「あんた、一体なにしに来たの?」と疑われる。
スサノヲは悪心のないことを証明するために
「子産み占い」(?)をすることにした。
女の子を三人産んだスサノヲは、
「俺の心が清らかっていう証拠だよね!」と勝ち誇る。
その三人の女の子の名前を、
「タキリビメ」「イツキシマヒメ」「タキツヒメ」という。
タキリビメは、今では宗像の沖津宮に、
イツキシマヒメは、宗像の中津宮に、
タキツヒメは、宗像の辺津宮に祀られている。』

そしてこの「宗像の中津宮」というのが、
大島にある中津宮のことを指している。
古事記にははっきりと
「この三女神は、宗像の人々が崇める神様である」と記されている。

宗像の一族は古来より、海洋豪族として
玄界灘のあたりを支配していたという。
ならば宗像三女神が、航海の安全を司る
守神としての神格を得たのも、道理かもしれない。
人間には気の遠くなるような長い間、
その神々は海を渡る人々を見守っていた。
——そんな神様がいてくれたらいいと、
気の遠くなるような長い間、人々は祈り続けた。
宗像大社には、今も年間180万の参拝者が訪れるという。
そのうちの一人に今夏、僕はなった。

「チェンソーマン」という漫画がある。
チェンソーマンにはたくさんの悪魔が登場する。
「コウモリの悪魔」「銃の悪魔」「闇の悪魔」。
その名を人々に恐れられた分、悪魔は力を増すという。
コウモリはそんなに怖くないので「コウモリの悪魔」は強くない。
でも闇は怖いので「闇の悪魔」はめっちゃ強い。

もちろん「未来の悪魔」もいる。
「未来の悪魔」はそんなに強力な悪魔としては描かれていない。
でも実際、未来というのはとても恐ろしいものだと思う。
そして本当に恐ろしいのは、
「どうなるか分からない未来」よりもむしろ
「なんとなく分かってしまう未来」。
助かるかもしれない、と思えるなら人はまだ死なない。
でも「この先もぼんやりとした苦痛が未来永劫続くんだろうな」
という未来視は、ときに人を死に至らしめる。
人を殺すだけの力が、未来にはある。

福岡市近郊の「いわゆる観光地」はだいたい行き尽くし、
お散歩も二周目に入った。
大島に来るのは二回目だし、
相島も二回行ったし、能古島にも二回行った。
行きたいところはだいたい行ったし、
やりたいことはだいたいやった。

「行きたいところはだいたい行ったし、
やりたいことはだいたいやった」という感慨は
人生におけるひとつの節目になる。
ゲームで言えば1週目が終わったところ。
そこでもういちどニューゲームを選ぶ人もいれば、
「もう十分だ」とばかりに電源を抜いてしまう人もいる。
その分岐点には「未来の悪魔」が横たわっていて、
じっとこちらを見つめている。

未来の悪魔を乗り越えるために、
自分には何ができるのだろう。

一回目の大島はバスで巡ったが、二回目は自転車を借りた。
おかげで細部まで見て回ることができた。
一回目には食べなかったものを食べ、
一回目には買わなかったお土産を買った。
大島は「あかもく」という海藻が名産で、
それを魚肉に練りこんだコロッケ「ぎょロッケ」は必食。
それから港で売っているご当地漫画「リトルリトウ宗像大島編」。
離島を愛する者が描いた、離島を愛する者のための漫画。
離島ファンなら、これを見逃す手はないよ!

一回目には行かなかったスポットにも立ち寄った。
あるいは同じスポットに行っても、今回は違うものを見た。
あるいは同じものを見てさえ、今回は違う感想を抱いた。
前回は植物にも石にも興味なかったけれど、今回、
神崎灯台のハマヒサカキや、津和瀬のアズキ石を面白いと思った。
——ここ数年、香りを通して植物に触れ、
また石や岩石の面白さを知ったからだろう。
古い言い伝えなんて、前回は気にも留めなかったのに
今回はどういうわけか古事記まで引っ張り出している。

三回目の来島では、もっといろんな光が観えるだろう。
「観光」とはそういうことかもしれない。
自分が持っている興味や関心が遠くから
その土地の時間や空間と結びついたとき、
魚影が去り、水底までふと届いた日差しのように
土地の光はより深みを帯びていく。

歴史は繰り返さないが韻を踏む、と誰かが言った。
生活はどうだろう。
思うに、生活はリフレインする。
同じモチーフを繰り返しながら、
けれど繰り返すたび、違った響きの音を奏でる。

「未来の悪魔」を乗り越えるために、自分に何ができるだろう。
次々と新しいことに挑戦しても、いつか限界は来る。
「新しいこと」というお守りが消費され尽くし、
使い潰される日を、未来の悪魔は虎視眈々と狙っている。

だからこそ、繰り返すことを恐れてはならない。
アンデスの高地で日々塩を作る塩職人たちの映像を
BGMのない深夜番組でいつか見た。
山肌に築かれた白い塩田が太陽に輝き、
塩職人たちが塩を集める、その映像が胸を打って忘れられない。

繰り返す行いは、禅僧が毎朝行う掃除のように
存在についての純粋な側面を映し出している。
塩を掬うように、塵を払うように、
同じ行いを丁寧に繰り返すことこそが、
未来の悪魔を退ける、祈りの仕草になってくれるだろうか。

散歩だって同じかもしれない。
なんども同じ道を行き、なんども同じ場所を行く。
「なぜ散歩をする?」——初めは答えのない問いかけ。
けれど繰り返し、重い魂を引きずって、
重い体を引きずって、
人に、文化に、自然に、伝承に、
何がしかの光を見出すうち、
繰り返し見たその光が、こちらに何かを語りかけてくる。
子供の頃から知っていたはずの、でもずっと忘れていた
存在についての真相のようなものを。

観光する気持ちで
この暮らしに宿る光を見て回ろう。
なんども同じ道を行こう。
なんども同じ場所へ行こう。
毎朝窓を開けよう。毎朝コーヒーを淹れよう。
そんなふうに繰り返す朝に向かって、毎朝目を覚まそう。

宇宙にあるものみんな、最小のものでできている。
未来の悪魔の正体は、
案外優しい、繰り返しの天使かもしれない。

紗織りの空から光の点描が降り注ぐ。
印象主義の絵画みたく、そのひとつひとつの点に意味はなくて
そのひとつひとつの点に意味があった。

寝そべる背中に、いたく涼しげな生活を描きながら、
明日を生きていく夢を見る。




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