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「あちらにいる鬼」と「荒地の恋」

井上荒野氏が父親の井上光晴と瀬戸内寂聴の不倫、そして光晴の妻の静かなる葛藤を娘が小説にする。その小説の帯に瀬戸内寂聴が「傑作だと、感動した名作」と称賛する。瀬戸内と思しき白木篤郎の不倫相手の「みはる」と白木篤郎の妻「笙子」のふたつの目線で物語は進行する。もちろん物語といっても実際の出来事を基にしている。みはるにとっての男とは「セックスというのは男そのものだと思う。うまいもへたもない。セックスがよくないというのは、ようするにその男そのものが自分にとってよくない、ということなのだ。」笙子は「篤郎と一緒になってから、私の心は彼という男にふさわしいように作り変えられてしまった。彼ではなく、自分自身によって。」と考えている。

白木篤郎というこの小説家はみはる以外にも幾人もの女をつくり、こそこそと隠すでもなく、しかし妻と子どもを捨てるでもない、紛れもない井上光晴そのものであるようだ。しばしば男がモテたかったらこまめになりまさい。いつでも些細なことでも愛情表現をしなさい、と言われるが、まさしくそうなんだろうと考えてしまう。小説家の父と不倫相手の売れっ子小説家、小説を書くことを諦めた妻、長じて直木賞など数々の文芸賞をとった娘。この小説の情愛はまさに「あちらにいる鬼」の情愛なのだろう。

僕が井上光晴を知ったのは高校生の頃、下宿先で初めて学校をさぼったのはこの作家の「虚構のクレーン」、「知の群れ」や「幻影なき虚構」などを読むためだった。政治的な思想などわかりようもなく、ただただあの佐世保港や炭鉱に働く人たちの暗い日常に惹かれて読み続けた。暗い洞窟を彷徨い続けるような読み方だった。それがこの小説に出会った時の衝撃は大きなものだった。いや否定的な驚きというものではない、否定も肯定もない。井上光晴の情愛とはこういうもんだったんだ、僕が読んだ彼の小説にはそういうことは全く描かれていなかった、というだけのことである。

この本を読んでいて思い出したのが、ねじめ正一の「荒地の恋」。荒地派の詩人北村太郎は同じく詩人の田村隆一の妻、明子と出会い、全てを捨てて二人は駆け落ちをする。こちらは大詩人の妻を奪い、妻も家庭を投げ捨てて地獄を転々とする。井上光晴の場合は、がんに苦しみながら妻と情人と娘たちに囲まれて、逝去する。状況は違えども、男の、しかも中年男の恋と情愛とは左様に激しく、周囲を苦しめてなお終焉に向かっていく、結局はどちらも”荒野”であり”荒地”なのだ。

「あちらにいる鬼」井上荒野著/2019年3月第3刷 朝日新聞社        「荒地の恋」ねじめ正一著/2010年7月文庫化 文春文庫

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