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ポッキーを最後まで食べるように(あるいはコンテンツの一生について)

ポッキーって途中までしかチョコがないじゃないですか。持つところだからそういう形になっているとかいうのはもちろんなんですけど、食べ物としてはチョコがなくなったとこって素っ気ない味ですよね。お土産屋とかにあるジャンボポッキーだと、いっきに食べられないせいでさらにそれが顕著な感じになります。

で、実はここから書きたいのはコンテンツの話なんですよね。コンテンツを生んでいる人、制作者の話でもある。

なんか、最初フリーミアムでWebサービス始めたけど段々利用料金が増えていくサービスとかで「なんだ、有料になっちゃったからやめよー」「なんか運営も変わっちゃったよなー」とかそういうのあるじゃないですか。これ、別に急に運営の人格が変わったわけじゃなくて、コンテンツの一生のうちの「時期」の問題でしかないと思うんですよ。

「最初はフリーで、軌道に乗ったら途中からお金を取る」っていうのはぶっちゃけ最初からわかっていることで、本当は当然というか(まあ確かに運営側が途中から「これ金とってもいけるな」って途中から商売っけ出すみたいなパターンもあると思うんですけど)。最初の年はこうやって、次の年はこう展開して、更に次の年で一気にこうする、みたいな事業のスタート期から軌道に乗る段階まで(更に言うなら終わるまで)を通して、それが事業だよなって気がするわけです。

普通企業がサービスを一年しか運営しないつもりでやってるわけはないし、仮に十年続けるとすれば、最初の商売っ気のない状態は長いセールス期間なのであって、その期間だけを見て「お前良いヤツだな」と判断されても困るんじゃないかなというか。もっというとコンテンツを生んでる存在の一期間の動きだけ見て自分がそれを好きか嫌いかと判断はできないはずだというか。

いやまあ、これがWebサービスとか単なるツールだと別に愛着でツールを使うわけではなくて仕事とか生活の役に立つかどうかで判断してやめるなり乗り換えるなりするのが普通だと思うんですけどね。例えを変えると他にも「好きなバンドがメジャーに行って変わった」みたいな話しとかも似てるかも。

好きだっつーんなら、変化や計画まで含めて好きじゃないといけないはずだっていうか。そういうおもたーい好きもあるじゃないすか。

もちろんそれほど好きじゃない好きもたくさんあると思うけど。大多数の軽い消費者に軽い消費をされることはコンテンツ提供者側も織り込み済みであるのは間違いないとしても、自分が何らかのコンテンツを楽しんでいて、その中の本当に好きなごく一部くらいは、何がどう変化しようとそれをチョコのついてる部分、ついてない部分程度に考えて、全部食べるつもりでいるといいんじゃないかなあって。

コンテンツを作る側には当然計画性が求められるわけだけど、消費者側も計画性を持って楽しむ、っていう考え方はこれまであまり聞いたことなかったなーと思ったりしたわけです。

もちろん急に「泥がついちゃって食べられない」ってことは、またあり得ることなんですけどね…w

写真: https://www.pakutaso.com/20150335071post-5268.html

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