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図書館史概説④~日本の図書館史~

はじめに

 連載記事『図書館史概説シリーズ』も今回で最終回です。手元にある資料がこれで打ち止めなのです。もし、機会があって新たな資料に出会い、このような形でまとめることが出来れば、特にイスラム文化圏やアジアの図書館史についてもふれて、現代日本における図書館の課題や今後の展望についても述べることができればなぁなんて。
 ということで一先ずの最終回、どうぞご覧ください。

1 日本の図書・図書館史の時代区分とはじまり

 日本における図書・図書館史については図書文化の歴史と関連付け時代区分ごとに分けて述べる。この時代区分については、岩猿敏生『日本図書館史概説』を参考に、その時代図書文化を担っていた社会階層に注目し、「貴族文庫時代(飛鳥・奈良・平安:古代)」、「僧侶文庫時代(鎌倉・南北朝・室町:中世)」、「武家文庫時代(安土・桃山・江戸時代:近世)」、「市民図書館時代(明治以降:近代・現代)」の4つに区分することとする。しかし、後述するがそれぞれの時代区分において、図書文化を支えたのがひとつの階層だけだというわけではない。例えば「貴族文庫」の時代において貴族以外に図書文化がなかったわけではなく、むしろ他の階層・勢力との関わりの中で図書文化は発展、精錬されていったのである。なお、この時代区分については第二次世界大戦終戦までを取り扱う際の区分とする。
 また、日本における図書文化のはじまりについては『日本書紀』の応神天皇15年に百済より『論語』10巻と、『千字文』1巻が朝廷に献上されたという記録が最初のものである。応神天皇の時代は4世紀後半から5世紀初頭と考えられているため、漢籍の伝来はこの頃であったとされる。なお、それ以前については日本において漢字漢文文化が普及しており、そうしたことから漢字漢文図書の存在も推測されるが詳しいことは分かっていないため、5世紀以降が日本における図書文化の時代と考えられる。

2 貴族文庫時代

 日本は古くから、中国・朝鮮との交流を行い大陸から様々な文物が流入してきた。その中で、特に6世紀前半における仏教文化の受容は政治や文化において大きな影響力を持ち、それは図書・図書館文化においても非常に大きな意味を持っていた。
 仏教文化が伝来した6世紀半ば、この頃聖徳太子は中央集権体制を整え、仏教を利用し国家を統制しようとした。法隆寺の建立は有名であるが、ここは仏教研究の学問寺であり一種の学校であった。ここには当時伝来していた仏典や漢籍などが収められていたと考えられる。また太子は『三経義疏』を編んだとされ、これが太子の執筆であれば日本人による現存最古の著作であるであろう。
 なお、610年には高句麗の僧、曇徴により製紙法が伝来しており、記録では紙の書物の伝来よりも後のことである。製紙法の確立された中国では、文字記録が紙に書かれるようになってから、特に隋・唐代の書物の形態は巻子本であり、この頃日本に伝来した書物もすべて紙の巻子本であったと考えられる。
 大化の改新を経て、日本は律令国家として出発する。その中で、天皇を中心とする貴族やそれらと結びついた僧侶の間に図書文化が定着する。この頃の図書は多くが大陸から伝来したものであり、これらの写経・写本が大量に作られた。また、現存最古の印刷物とされる『百万塔陀羅尼』はこの写経・写本全盛期にあって作成されている。
 以上のように仏典が広く普及し写本とされるに伴い、寺院内には保管のための経蔵が設けられたが、同様に律令体制の整備に伴い漢籍も多く伝来した。そうした書籍の収集や保存、校写、国史の撰集や紙・筆墨に関することを司る「図書寮(フミノツカサ)」が大宝律令下に設置され、ここでは先に述べたような、今日の図書館業務より広範囲な事業を担っていた。また図書寮は貴族や宮廷の官人に所蔵する書籍の借覧を許していたが、どのような蔵書があったのかなどは目録などがないため不明である。他に宮廷には文書類の保管を担った「文殿」が公式の図書館または文書館として設置された。この頃すでに貴族の中には個々人での図書の収蔵がみられる。特に石上宅嗣は有名であり、その大量の蔵書を保管し、公開した「芸亭」は日本初の公開図書館とみなされている。
 平安時代になると、貴族たちの間での図書文化がますます盛んになる。特に9世紀の半ばに成立した「仮名文字」は当初は私用の文字であり、主に女性が用いるものであったが、これによって漢字漢文によらず日本語をそのまま表記できるようになり、このことが『古今集』や『源氏物語』といった国文学の上で重要な著作がうまれたこともまた、貴族の図書文化に拍車をかけたのであろう。さらに、平安貴族の中には書物の収集家として知られるものが出てきた。彼らは「公家文庫」と呼ばれる私文庫を持ち蔵書目録を残している。有名なものでは藤原頼長や、大江匡房に始まる大江家による千草文庫などがある。官職の世襲と供に一族による学問の世襲化がこうした個人、一族の蔵書が数多く収蔵されたことの一因であったと考えられる。また、この頃には紙を折りたたみ表紙をつけた「折本」や、「粘葉(デッチョウ)」と呼ばれる糊付けされた冊子、また「綴葉(テッチョウ)」と呼ばれる袋綴りの製本様式も現れるようになる。

3 僧侶文庫時代-鎌倉仏教と「五山版」-

 鎌倉時代に入ると、権力が公家から武家へと移り武家政権が誕生する。その中で源平の争乱で焼失した南都寺院の復興や学僧らにより仏典の刊行が各宗の寺院によってなされる。すなわち、寺院・僧侶を中心とした図書文化の時代が訪れるのである。
 鎌倉時代の印刷文化の特徴は平安時代のそれが京都・奈良に限られていたのに対し、地方へと広がっていったことである。禅宗を重んじた鎌倉幕府の膝元では鎌倉五山(建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺)が開かれ、それに遅れる形で京都五山(天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)が開かれる。これら五山を中心に禅籍が刊行され、その他にも漢詩文集、韻書の類が中国の「宋版」と呼ばれる印刷技術の影響を受ける形で刊行された。こうした五山を中心に刊行された書籍を五山版と呼ぶ。これら禅宗の寺院は中央と地方との交流が密接であり、こうした印刷刊行は地方にも普及していった。また、それ以外にも高野山では高野版と呼ばれるものや、特に浄土教版は民衆への普及に伴い室町時代の頃には非常に活発であった。
 また鎌倉期では寺院の開版活動が盛んであったことからも、その原本となる書籍が所蔵されていたことが窺える。しかし、寺院内に文庫と呼べる施設がどのように存在し利用されていたのかは明らかではない。しかし、平安末期から盛んになった日宋貿易の影響から入宋する僧侶によって様々な仏典・書籍がもたらされた。今日においてもそれらが各地の寺院に所蔵されている。また、仏典以外にも儒書、詩文集、医書など様々な書籍を所蔵した泉涌寺の俊芿などが有名である。
 南北朝期を経て室町幕府が成立すると、五山版も変容をみせるようになる。応仁の乱以降、戦火に包まれた京の町から貴族が地方へと難を逃れて移動すると、それに伴い五山版も各地で仏典以外の書物を刊行するようになる。これにより、各地での印刷がより盛んに行われるようになり、刊行事業に有力な商人、大名などが関わりをみせるようになる。
 また、鎌倉・室町時代になると文化の担い手もまた貴族から武士へと移っていく。刊行事業の多くが寺院・僧侶に担われ、また「東福寺普門院書庫」や「東福寺海蔵院文庫」のように多くの蔵書を収集して有名な寺院文庫も存在したが、これらはいずれも寺院の奥に秘蔵されていた。一方、武士は大陸の新しい文化を取り入れるため積極的に多くの書籍を収集し、文庫を設える。例えば鎌倉問注所執事の三善康信による個人文庫「名越文庫」は私文庫でありながら職務上多くの公文書も保管され活用されていた。また「金沢文庫」は鎌倉時代を代表する武家文庫であり、教育施設でもあった。創設の時期などははっきりしていないが、本格的に書籍の収集に力を入れたのは北条実時の時代からであるとされている。その後、子の顕時、顕時の子貞顕の三代にわたり書籍収集が精力的に行われた。
 各時代の目録は現存していないが『北条九代記』には「称名寺の内に文庫を建てて和漢の群書を集められ、……世にある程の書典では残る所なし」とあるように、膨大な数の蔵書があったようである。金沢文庫では武家の子弟を中心に、「好学の徒」に蔵書の借覧を許し、学問の場ともしていたのである。なお、現在は「神奈川県立金沢文庫」という博物館施設としてその姿を残す。

4 武士の文化的素養と武家文庫時代

 室町時代に入ると、武家は経済的にも力を増し、文化的能力の向上もより顕著になってくる。その中で戦乱や災害の続いた京都よりも地方の武士たちによる文庫形成が盛んに見られるようになる。その代表といえるのが、下野国足利荘(現:栃木県足利市)に創建された「足利学校文庫」である。誰によって創建されたかなどはさだかではないが、武門に重用される人材の教育機関として存在し、そのための文庫が設置されていた。その蔵書の中心は漢書、特に儒書が中心であったようだが当時の目録などが現存しないため不明である。足利学校は関東管領の上杉憲実以下、上杉家によって支援された。また、地方で力をつけた武家の中には文庫だけでなく印刷物の出版に関わる者も出てきた。大内氏や島津氏の開版活動は特に有名である。
 岩猿によると鎌倉・室町期は「僧侶文庫」の時代であるが、特に室町期に入ると武家の文化的能力が飛躍的に向上したことで、図書活動が盛んになっていく。勿論、寺院・僧侶による開版事業の隆盛により日本の図書文化が担われていたのは確かであるが、武家による書籍の収集や開版など、後の時代における「武家文庫」を支える下地を作る過渡期であったといえるだろう。
 安土・桃山時代は中世から近世へと至る動乱期であった。その中で、鉄砲を始め様々な文物が西洋より流入してくる。特に図書文化に関しては1590年、日本に帰国した天正遣欧少年使節とヴァリニャーノが布教のために印刷物を作成するため持ち帰った金属活字による印刷機がある。これによって作成された印刷物を「切支丹版」という。その後、切支丹の信仰は秀吉・家康により弾圧され、それに伴い切支丹版は20年程の短期間に作成されただけであった。それに少し遅れて、1592年と1597年の文禄・慶長の役では朝鮮より活字印刷術が持ち帰られた。それから約50年の間刊行された印刷版を「古活字版」と呼ぶ。こうして活版印刷術が日本で用いられ、それまで寺院中心だった印刷物の刊行がより広がることとなる。

5 江戸幕府と「図書」

 江戸幕府を開いた徳川家康は文事に関心が強く、豊臣政権化の五大老の折には足利学校に、伏見の円光寺で木活字用いて開版させた典籍を与えているこれを「伏見版」と呼ぶ。また、幕府を開き駿府に隠居した際は銅活字で『大蔵一覧集』や『群書治要』を印刷した。これらは「駿河版」と呼ばれる。家康はその晩年に、木活字、銅活字を用いて活字本を印刷し、さらには駿府城内には金沢文庫より伝来したものをはじめ、朝鮮出兵の折に持ち帰られた朝鮮本のほか、鎌倉五山の禅僧らに古書・古記録類を書写させたものを収める「駿河文庫」を設けた。そして1602年江戸城内の富士見亭に「富士見亭文庫」を設けるが、1639年三代将軍家光の時に江戸城内紅葉山に書物庫を建て、富士見亭文庫の書物を移し「紅葉山文庫」と名づけられた。この6年前には文庫担当の書物奉行が置かれ、蔵書の整理や管理にあたった。近藤正斎という江戸末期の幕臣が著した『好事故事』によると「司書ノ任或ハ曠カランコトヲ慮ルカ為ニ新ニ御書物奉行ヲ置レシナルベシ」とあり、「司書」という言葉が使われており、また司書の任はただ文字が読めるだけでは勤まらないということも述べている。
 江戸幕府は君臣関係という上下秩序を重んじる朱子学によって統制をはかろうとした。そのため、二代将軍秀忠の招きにより林羅山は上野忍ヶ岡に塾舎と文庫を建て家塾という形で朱子学を教えた。その後羅山の後を継いだ春斎は塾舎を「昌平坂学問所」と称し、朱子学が官学となると、旗本・諸藩の子弟を教育する官学校となった。学問所の文庫はもともと羅山の文庫であり、火災などの難に遭いながらも幕府の援助を受け建て直しを繰り返し、また幕府や諸大名からの寄稿本などもあり、蔵書が拡大された。塾生らへの貸出がなされており、貸出や利用に関する規則なども整えられていたようである。
 幕府は家康以来文事に努めたので、親藩の御三家をはじめ好事好学の大名が現れてきた。また、幕府が1797年に昌平坂学問所を正式な官学校として設置したことにならい、諸藩も藩士の子弟教育を中心とした藩校と教育上必要な書籍を収集し保管するための藩校文庫が設けられた。これらの藩校は教育上必要な書籍の刊行を行うこともあった。こうしたものを「藩版」という。また、大名・武家の文庫としては前田家の「尊経閣文庫」、蜂須賀家の「阿波文庫」、脇坂安元の「八雲軒文庫」などが有名である。

6 町人への広がり

 以上のように、幕府をはじめ大名、武家の間に書籍を収集し、それを学問に利用するための環境が整えられた。そしてそれと同時に江戸時代は出版活動、読書文化が庶民の間にも広く浸透していった時代でもあった。
 印刷業が発達し、町人文化の中に書物や読書が浸透すると経済的な活動として本屋業が現れてくる。本屋は書籍の印刷と販売を独立して行っていたが、そうした本屋業の中で重版や類版といった、今日でいう著作権に関する問題や紛争が多発するようになる。それを調停、もしくは事前に予防するための組織として「本屋仲間」が生まれる。
 また、「貸本屋」と呼ばれる商売も発達する。誕生、成立がいつ頃なのか詳しいことは分かっていない。当初は本を背負い巡回する有料の移動文庫のようなものであった。後に店舗を構えるものも現れるようになり、有料の図書館のような役割を担っていた。
 また、個人文庫や「公開図書館といったものも町人の間で発達するようになる。狩谷望之、小山田友清らは好学家であり、多数の個人蔵書を持っていた。また木村兼葭堂は18世紀後半以降、大阪で町人を中心とした学問研鑽に属し、様々な職業、身分の人と交流を持った。その中で木村は多数の書籍だけでなく、古人の書画、古銭や古器、草木・鉱物・動物などの標本、考古資料など様々な博物的資料を収集していた。これらはひとえに学問研究のためのものであった。個人による収集・保存ではなく一般公開を目的とした図書館として有名なものは河本一阿の「経宜堂」や青柳文蔵の「青柳館文庫」、竹川竹斎の「射和文庫」などが有名である。特に青柳館文庫は設立の目的が当初から一般公開のためであり、藩の公認を得てその援助を受けていたこと、こうした公的性質を持っていたことは特徴的である。また射和文庫では目録には書籍以外にも書画や古銭、古銅鉄器類なども所蔵していたことを示しており、「文庫」と銘を打ちながらこうした博物資料を所蔵したある種のミュージアム的な性格も持っていた。これは当時の他の個人文庫などからも見て取れることである。さらに庶民を対象とする「公開図書館」として「神社文庫」とよばれるものも登場する。これは、江戸時代に国学が隆盛しその中で神道研究も盛んになり神社が研究のために書籍を収集することで蔵書を増やした経緯で発達したものだが、中には本屋仲間からの新刊本の寄進や、前記事で述べたイスラムの図書館のように持ち主の死後、散逸を防ぐ目的などで神社に寄進するといった経緯から神社文庫として発展したものもある。前者については、神道研究者らや神官らによる講義が行われる場所でもあった。後者では本屋仲間らなどが「文庫講」を組織して収集や保存、公開閲覧の管理を行うものもあった。
 江戸時代には幕府や大名、武家を中心とした図書文化や文庫が発達したが、後期になると庶民の中にもこうした図書文化、また文庫という図書館文化が現れてきたのである。両者供にコレクション的性格はもとより、学問研究、公開利用といった性格を持ちえており、ここから、日本における「公共図書館」という今日へと繋がる兆しが生まれたのであろう。

7 市民図書館時代-近代的「図書館」と日本-

 江戸時代を経て幕末、明治維新を乗り越え、日本において市民階級が図書館文化を担う時代が訪れる。ここから、日本図書館史の近代化が始まる。
 市民図書館の時代を生み出した契機はなんなのか。それは福沢諭吉による『西洋事情』という書物であろう。1860年の遣米使節、1862年の遣欧使節に随行した福沢はこの書物の中で「西洋諸国の都府には文庫あり ビブリオテーキと云ふ」と述べている。この他にも遣米、遣欧使節の記録などにも日本の「文庫」とは異なる「図書館」に関する記録がある。こうした記録や、1871年から2年間、欧米使節に同行した田中不二麻呂の報告やお雇い外国人の図書館建設の建言を通して明治政府の図書館への関心が高まり、1872年、幕府が設けていた湯島の聖堂に「書籍館」を創設した。さらに1877年には田中が近代的教育の一環として公立書籍館の設置普及をはかり、全国各地に公立の書籍館設置が見られるようになる。こうして「書籍館」という名称が広く定着していくが、「図書館」という名称を持つものもまたこの頃に出現している。1877年、東京大学が創設されそこに法学・理学・文学部の「図書館」が設けられたのが最初である。そして以降1880年代半ば頃まで一般に公開されたものは「書籍館」、大学においては「図書館」という名称を用いていた。
 そして日本において公共の近代的図書館の興隆を支えたのは1899年に公布された「図書館令」である。これは日本初の図書館単独法規である。ここで公共図書館は「図書ヲ蒐集シ公衆ノ閲覧ニ供」する施設とされ、職員は「館長」と「書記」によってなるとされ、また閲覧料の徴収を認め、公私立学校への附設を認めた。これにより、全国各地に公私立の図書館設置が相次ぎ全国的な図書館の普及に伴い、見識ある図書館人の登場や、「日本文庫協会(後に日本図書館協会と名称を変え、今日も発刊の続く『図書館雑誌』を刊行)」や「関西文庫協会」などの全国的な図書館員の組織が結成された。これによって日本における本格的な図書館活動が開始されるのである。こうして「図書館」というものが公教育を支え、一般市民に開かれたものとして定着していくことになるのである。
 その後、図書館は様々に活動や運動を行い、また公教育、社会教育の担い手としての役割を果たしていくが大正デモクラシーの時代、図書館に新たな思想が芽生え始めていた。それは特に先に紹介した『図書館雑誌』に見られる。三宅雄二郎は「図書館は最も自由なる学校」であり「危険思想や猥褻の書物も収集、公開すべきだとし、毛利宮彦はレファレンスワークによってはじめて図書館が自由主義の教育機関としての意義を持つ、また石渡敏一は、貸出の手続きの簡素化、書庫の解放の必要を述べている。
 昭和に入り軍部の台頭や左翼の取り締まりなど思想統制が強化されるようになる。この思想統制は図書館にも及び始め、1933年には図書館令が改正される。改正の主な特徴としては「中央図書館制」が定められたことである。これにより、文部大臣の認可を受け、各道府県の中央図書館を指定し、「文部省-各道府県中央図書館-各道府県下公共図書館」という指導体制を形作ることとなる。また、治安維持法による言論・思想統制の一環として図書館に対しては、警察権力による社会主義や自由主義的文献に対する閲覧禁止や没収といった措置が取られるようになる。公共図書館は、確かに国家の公教育を支える存在であったが、それはこうした非常時下での思想の統制に与する施設としての姿であった。
 太平洋戦争が始まると、館員の中から兵役に就く者や蔵書の疎開、一部の図書館は軍部の施設に指定されるなどして、またアメリカ軍の本土爆撃の影響などを受けて実質的に図書館活動は停止せざるをえなくなってしまう。図書館が再編され活動が再開されるのは1945年の終戦以後となる。

8 戦後「図書館」の再出発

 戦後の日本はGHQの指導の下に様々な改革がなされるようになる。教育や図書館に関する改革も同様に行われ、1950年までの間にそれらに関する法律が整えられていく。
 1948年には「国立国会図書館法」が成立する。これはアメリカの議会図書館をモデルとしており、議会に対する調査参考の図書館としてまた、国民に開かれていることや資料の収集と保存、情報提供に努めることなどが定められた。そして1950年に「図書館法」が公布される。これにより日本の「図書館」が現代へとつながる形へと進み始める。特に「図書館奉仕」という新しい理念により、新しいサービスを提供しようとする。しかし、直ちに図書館活動が大きく発展したというわけではなかった。
 また、「アメリカ教育使節団」の報告書では教育改革を進める上で「学校図書館」の役割も強調され、それを受けた文部省は『学校図書館の手引き』を刊行する。さらに民主主義教育の実現を学校図書館に求める教師たちが1950年に「全国学校図書館協議会(全国SLA)」を結成し、学校図書館基準の法制化や司書教諭の養成・配置などを求める署名運動を行い、ついには1953年「学校図書館法」が制定される。
 前述したが、こうした図書館関連の法律が制定されたからといって、直ちに国内の図書館活動が大きく発展したわけではない。むしろ、国や地方自治体の財政基盤の弱さから積極的な活動に取り組むことは難しかったのである。また財政面以外にも問題となったのは「不読者層」の存在である。図書館を利用したくても出来なかった、また貧弱な図書館サービス、図書館の社会教育(思想統制)機関としてのあり方から市民が図書館への「誤解」を得てしまったと図書館界は考えた。その解決策として、「移動図書館」を走らせる試みがなされる。また長野県立図書館長、叶沢清介による「PTA母親文庫」や鹿児島県立図書館長、椋鳩十が呼びかけた「母と子の20分間読書運動」など、読書活動を浸透させようとする取り組みがなされる。その他にも高知市立市民図書館の「ユネスコ協同図書館事業」は世界各地の図書館を、ユネスコを通じ結びつけることで、相互の啓発、協力によりその国の図書館活動を発展させようとするもので、図書館活動の「真の姿」を示そうとした。神戸市立図書館長、志智嘉九郎は「世の中の森羅万象に至るまで生じた疑問について図書館資料を通して答える」として、日本初となる組織的レファレンス事業を実践する。
 こうした活動を通しながらも1960年代初頭まで図書館活動は停滞していた。特に欧米の図書館の館外貸出の活発さは日本をはるかに凌ぐものであった。そのような現状を打破するために日本図書館協会が中心となり全国調査を行い、1963年に『中小都市における公共図書館の運営(通称『中小レポート』)』が刊行される。ここから日本の公共図書館発展の基本的理念が形成され、実践されていく。そして、1970年代から80年代の高度経済成長に伴い、新刊書籍販売部数も増加し、日本の図書館数もまた増加していくのである。

最後に

 図書館とは「情報の記録メディアを集積・保存・整理・管理し、それらの成果を利用者に提供するための専門家を有する施設、かつそれらが機能しうる制度」であると考えられる。これを言い換えるならば、「図書館」は「書物」という「モノ」があり、それを納めるべき空間として「ハコ」が必要である。そしてそれらを管理しうる図書館員と同時に利用者、すなわち「ヒト」が揃うことが図書館の要素であるといえる。
つまり当然のことながら、図書館は書物を集めただけの書庫や物置を指す言葉ではない。図書館の歴史で触れてきたように図書館は書物を保存するための場所として始まったのである。もちろん「書物」がなければ図書館としての第一歩を踏む出すことはできないのである。しかし、それらを利用し、また利用させうるための「ヒト」が存在しなくてはならないのである。それによって図書館は真に「図書館」たりえ、かつ図書館の使命をはたすことができるのである。
そして「図書館」において最も重要なのは「ヒト」であろう。
 図書館の歴史を紐解いてみると、「図書館」を支える人々はその時代によって身分階層は異なるが、そうした時代ごとの「利用者」たちの必要性やまた、その利用の仕方によって図書館の姿は変化していった。
その始まりはただの書庫だったのかもしれない。しかしそれを保管し管理すること、また収集することを必要としたために生まれたのである。そして書物を管理するにあたってただ並べるだけではなく分類し、それを整えることために専門家もまた必要とされた。そして時が進めば好奇心が図書館を必要とした。すなわち諸学問、宗教の研究である。図書館は学問の場としての機能を得る。しかし、コレクションの機能を失ったわけではない。そして、次第に図書館を利用する人々もまた、新たな社会階層の追加という形で変化していった。
確かに書物の形態は時を経て変化したし、それを納めるべき空間もまた様々に変化していった。しかし、それが「図書館」のあり方を変えたとは断言できまい。しかし、「ヒト」の変化は直接的に図書館のあり方を変えたのである。
 つまり「図書館」の変化の歴史は人類の発展の歴史であるといえよう。王侯貴族や宗教の支配を経て、新たに出現した有力者層へ政治の実権が流れ、現代に至っては市民の手による政治が実現された。これは洋の東西を問わず同様の歴史を辿っている。そしてそれは図書館の利用者層の変化と類似するのである。
 歴史が、その時代を生きる人々の営みによって定義されるように、図書館もまた、その時代に生き、図書館を利用する人々によって定義されるのである。
 そしてそうした図書館は現代においてどのように定義されるのだろうか。
今や世界は情報化、電子化の技術によって大幅に進歩している。ボタンひとつで世界のありとあらゆる場所の情報を得ることができる。そしてそれは誰もが平等に接する機会があり、「図書館」、特に「公共図書館」と同様に特定の層の特権ではない。
 誰もが簡単に情報を得られること、それは「図書館」のはたすべき役割であるが、それが今や図書館以外の手によってはたされようとしている。しかもそれは実際に図書館に足を運ぶよりもはるかに簡単な方法によってである。
 そうなると、図書館の必要性はなくなってしまうのだろうか。すべての情報が電子化され、紙の本が必要とされなくなってしまえば、図書館は消失してしまうのだろうか。確かに、物理的な空間としての「ハコ」はほとんど必要とされなくなるかもしれない。むしろ、「ハコ」そのものに限界があるからこその電子化であろう。
 だが、「情報」の価値そのものはなくならない。情報がある限り図書館には存続する意義がある。それは、元来図書館が取り扱うのは「書物」という物理的な存在だけではなく、「モノ」とはすなわち「情報」でもあるからなのだ。電子化された情報を管理するための物理的には存在し得ない図書館の形、それもまたあり方であろうし、実際に「電子図書館」というものは整備されている。
 図書館が「ヒト」によって形作られるものである以上、ヒトが情報を必要とする以上、「図書館」はなくなることはないだろう。ただ、これまでそうであったようにその形を変えるだけである。
 そして、それは図書館を取り巻くその他様々な問題についてもいえるであろう。例えば、電子化によってより高度なものとなった情報技術、我々は簡単に膨大な情報に触れることが出来るがゆえの苦労もまた存在している。それは、もちろんインターネットを介した犯罪や事件、トラブルに巻き込まれる危険性があるということでもあるが、単に膨大な情報を扱いきれないという問題がある。誰もが簡単に情報を手に入れ、時には発信することも出来る、それゆえに自信の必要とする情報を捜し求めることに困難が付きまとう。また真偽の定かでない情報や偏った情報によるトラブルというのも世間を騒がせる。
 ではそれを解決するにはどうすればいいのか、図書館はどうすればその問題に対応できるのか。図書館は「情報資源」を取り扱う専門組織である。それは膨大な数の資料を有すること、それを用いたレファレンスサービスということからもわかるだろう。図書館はそうした情報を扱うノウハウ、これを人々に教授すること、つまり「メディアリテラシー教育」を実践することが可能であり、それは現在強く求められている。実際に公共図書館を始め、学校図書館、大学図書館でそうした教育活動の実践がなされている。図書館のもともと持っていた教育の機能、それがより積極的に実践され活かされる、これもまたこれからの図書館の形であろう。
また、昨今の図書館の抱える課題として「利用者の減少」といものがある。これこそまさにヒトに直結した問題である。利用者を呼び込もうと様々な図書館が様々な取り組みを行っている。独自の取り組みで話題になる図書館もある。
 もちろんすべての人々のニーズに応えるというのは難しいだろうが、図書館の基本的な機能を押さえつつ新たな取り組みに挑戦することは可能であろう。むしろそうしていくことが、今後図書館に求められることではないだろうか。
 社会と供に、人々の図書館へのニーズは変化していく。それと同時に、図書館もまた変化していくのだろう。それは歴史も証明している。
現代は多様性のある社会、それを認めようとする社会を目指している。もちろんそこに少なからず壁は付きまとうであろう。しかし、だからこそ変化もまた多様であり、こうあるべきという明確な形は存在しない。人と本との、情報との出会いを繋ぐ図書館、求める情報が正確かつ容易に得られる図書館、電子書籍のみを扱う図書館、様々な図書館が現れることこそ、これからの社会に必要なあり方なのかもしれない。


本記事参考一覧

参考文献
・『広辞苑 第五版』岩波書店、1998年。
・岩猿敏生『日本図書館史概説』日本アソシエーツ、2007年。
・大串夏身・常世田良『図書館概論』学文社、2012年。
・樺山紘一編『図説 本の歴史』河出書房出版、2011年。
・高山正也・岸田和明『図書館概論』樹村房、2011年。
・佃一可編『図書・図書館史』樹村房、2012年。
・丸山昭二郎ほか監訳『ALA図書館情報学辞典』丸善、1988年。
・ヨリス・フォルシュティウス『図書館史要説』日本アソシエーツ、1980年。
・リチャード・ルービン『図書館情報学概論』東京大学出版会、2014年。

参考雑誌
・『図書館雑誌 vol.107(No.1-12)』日本図書館協会、2013年。
・『図書館雑誌 vol.108(No.1-12)』日本図書館協会、2014年。


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