作家となった殺人犯

今回は、殺人犯があるカトリック神父に出会い、やがて回心し、敬虔なカトリック教徒となり、聖書の文語訳にも取り組み、また作家としても数々の著作を世に問うことになった出来事を述べたいと思う。

現在、練馬区関町に、近代的で立派な校舎・施設を擁する東京カトリック神学院がある。この地に最初の神学校(東京公教神学校)が設立されたのは非常に古く、昭和4年(1929)3月だそうであるから100年近くの歴史を刻んでいることになる。初代校長は、パリ外国宣教会から派遣されたソーヴール・アントワーヌ・カンドウ(Sauveur Antoine Candau, 明治30年(1897)-昭和30年(1955))神父である。

カンドウ神父は、大正15年(1925)に日本に到着し、日本のカトリック教会関係者と交流を深める中で、日本のカトリック教指導者らの深い教養と高い見識、ひいては日本人の教養と日本文化に心を打たれたようで、日本にキリスト教の花を咲かせるために、自分の持っているキリスト教的教養の全てを捧げる決心をしたそうである*1。

カンドウ神父は、カトリック教会の枠を超えて知識界で有名となった神父で、数多くの事績を残しているが、なかでもある死刑囚をキリスト教に導き、回心・受洗させて模範囚・作家としたことがあり、そのことは師の一生涯中で最も幸福な出来事だったようである。その出来事とは、一体どのようなことであったのであろうか。

昭和29年(1954)12月末、カンドウ神父は、前年の昭和28年(1953)7月に強盗殺人事件(バー・メッカ殺人事件)を起こし逮捕され、東京の小菅刑務所に収監されていた正田昭被告(24歳)を見舞った。正田被告はその後もしばしば訪れてくるカンドウ神父の謦咳に接するうちに、神父の高潔な人格に引き付けられるようになり、まもなく神父からカトリック要理を学びだし、勉学と信仰の生活に入った。カンドウ神父の語る神のみ言葉は、獄窓に呻吟する被告の心を照らし、やがて正田被告は回心し、昭和30年7月9日、カンドウ神父の手から洗礼、聖体、堅信の秘跡を授ったのであった。

正田被告は、その犯行が計画的、非人間的で残忍であり、また犯行直後は無感情で良心の呵責などが見られなかったこともあり、数多くのキリスト教信者から助命嘆願があったにも関わらず、昭和38年(1963)に死刑が確定した。

正田被告の事件は、犯罪学の上では起こりえない事件とされ注目された。何故なら被告は裕福な中流家庭に生まれ、長じては慶応大学経済学部に学ぶほどの高学歴者であって、犯罪学ではこのような環境と生育の下では犯罪は発生しないと言われていたからである。被告に対する精神鑑定では、被告の成育過程における情性(人情や感情)の欠如が遠因であるとされた。被告自身も生母について、「母は教職に就いていたために、時間がなくて普通の母子のような対話は余りせず、それに私の学校での成績が大変良かったので、もうそれだけで安心して子供である私の心の問題についてはほとんど考えぬようでした。母は母なりに私を可愛がったつもりかもしれませんが、私が母の手を最も欲していた時、母は『向う』を向いていたのです」と語り、事件の原因の一端は母および家族関係にあったとした*2。

被告の母は、我が息子の救われる道はカンドウ神父の導きによる他はないとして、カンドウ神父に霊的指導を依頼した。そこで前述のようにカンドウ神父は、被告を獄舎に訪ね、キリスト教に導いたのであった。しかしカンドウ神父は被告を回心せしめたのは、実にその母親の純粋な愛だとして、次のような内容を昭和30年7月10日付け朝日新聞「きのうきょう」欄に投稿している。

「獄舎に彼と涙の対面をしたその母親の最初のことばは、怒りでも、恨みでも泣き言でもなく『あなたへの愛し方が足りなかった母さんが悪かった。ごめんなさいね』とのやさしい詫び言だった。一世を騒がせたこの殺人犯を真直謙虚な青年に一変せしめたのは、実に母の純愛のひと言であった。社会もうらまず、悪友もとがめず、ひたすらわが身に罪を着る母の心であった。今も断罪の日の予見におののきつつ面会日ごとに遠路を急ぐ母、身をもって世に詫びるがごときその小さな姿に、痛々しい崇高なものを感じるのである。無私の愛は愛の極致である。母の心は造物主の傑作だ。」

正田被告は、獄中でいつ来るか分からない死刑執行日の知らせの恐怖におののきながら、信心と、文筆に励み、「サハラの水」(昭和38年群像新人文学賞候補)、「黙想ノート」(昭和42年)、「夜の記録」、等を創作した。これらの出版物から入る印税などは全てカトリック施設に寄付されていたとのことである。被告は優れた文才を示し、このような状況下において素晴らしい傑作が生まれ出ることを切望していた。

昭和42年のある日、被告の精神鑑定を行って以来文通を行っていた担当精神科医のもとへ届いた手紙では、「・・・・私はおかげさまで、とても元気に静かな、満ち足りた心で過ごしています。この4月19日で38歳になりますが、24歳でここに来、今では東京拘置所で最も古い存在となりました。そしていまや余命いくばくも無いというのに、修徳や祈りなどで、何ですか生涯で一番充実した日々を生き生きと送りえていることを感謝しないではいられません。・・・」としたため、非人間的な罪を犯し、犯行後も長い間、罪の意識を欠き、悔悟も見られなかった被告が、カンドウ師という立派な人格に出合い、はじめて人間的に目覚め、死刑を宣告された極限状態においても毎日を信仰と思索に専念し、神を求めて精進していたのである。

昭和44年12月8日、被告のもとに翌日の9日に死刑が執行されると言う通知が遂に来た。先の精神科医の元へ「明日、私は<あちら>へ参ります。死にあたって、私は先生(担当精神科医のこと)に再び三度び心からお礼を申し上げます。では、先生お体をくれぐれもお大事に。」という平素とまったく変わらぬ手紙が届いた。同精神科医は、「通知を受領した日の従容自若たる態度がまざまざと眼に見えるようである。それは被告の日頃の信心の賜物に他ならない。謹んで哀悼の意を表する。」と述べている。そして翌9日、被告は従容として絞首台に上った*3。

もし正田昭被告が生き永らえ、あの懸命な努力を続けたならばどんなにか素晴らしい作品が生まれたかも知れず、また社会のために有意義な貢献ができたであろう、それが実現しなかったことは極めて残念である、と前記の精神科医は語っている。

殺人は許されるものではないが、正田昭被告の文学についてだけ言えば、早世した人であるが故に未完成の部分があるように思われる。それだけに完成を目指しつつ、しかも未完成に終わったもののみが持つ特殊な美しさ、苦悶を伴った緊張というべきものが、老熟した文学よりも多いように感じるのだ。

*1: ある時カンドウ師が汽車に乗って、動き出した車内からホームの売子を呼んで、五銭を渡して二銭の新聞を買った。売子は走りながらつり銭を渡そうとしたが、汽車は遠ざかってしまい、つり銭を渡すことができなかった。しかし次の駅に着くと、車掌が神父のところへやってきて、丁寧におつりの三銭を渡した。前の駅から事の次第を知らせてきたから分かったそうである。「なんという正直者だろう。これがキリスト教を知らない人のすることか。」と言って神父はすっかり感心した。「日本人には自然徳がある」、と聖フランシスコ・ザビエルのように日本人の善意が好きになった。(1549年に日本に到着したザビエルは日本人の印象について、「日本人よりも優れている国民は異教徒の間では見付けられないでしょう。親しみやすく悪意がありません。日本人は予の魂の歓びです」と言っている。この言説は当時、西洋では広く流布しており、これがアメリカ政府をしてペリー率いるアメリカ艦隊の日本遠征を決心させた原因と言われている。)

*2: 被告の精神鑑定を担当した医師は、被告は父親の愛を全く経験せず、母や兄・姉たちとの間にも、また家族外の人たちとの間にも真の感情的関係のみならず成人一般に対しても強い不信と嫌悪を抱いていた、と証言しており、被告自身もそれが犯罪の重要な原因となったことを認めている。従って正常な良心や真の悔悟の情も発達しなかったという。被告は、上告趣意書の中で、もしカンドウ神父に出会わなかったら罪の意識すら持つことはできなかったであろうと述懐している。

3: 正田昭以外に、もう一人、死刑囚でありながら服役中に改心し小説家となった人がいる。1968年10月から11月にかけ、4つの都道府県において男性4人を相次いで射殺する連続殺人事件を起こし、翌年逮捕された永山則夫である。永山は北海道網走市の極貧の家庭に生まれ、4歳のとき生活苦から他の3人の兄弟と共に母から捨てられた。家庭は貧乏な上に、兄からの暴力もあり子供がまともに育つ環境ではなかったという。永山は、収監後、初めて面会に来た母親に対し、「おふくろは俺を3回捨てた」とだけ口にし、泣くばかりであった。永山は死刑執行の連絡を受け、刑場に向かう際激しく抵抗したため、刑務官により暴行を受け、意識が無い状態で絞首による処刑が行われたという。

注記:この記事は、一昨年、私の通っている教会の広報誌に掲載したものを多少手直ししたものである。最近、正田昭氏が、聖書の文語訳を行っていたことを知った。それを手に取り、読み始めたとき、私は何故か涙を禁じえなかった。彼は回心して敬虔なカトリック教徒となったが、後に絞首台に露と消えてイエスキリストの元に旅立った殺人犯であった。イエスの元で今も聖書の文語訳に取り組んでいるのであろう。

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