ジョルジュ・ネラン神父のこと


先日、ジョルジュ・ネラン神父の「キリストを伝えるための核心とヒント」(フリープレス)という本を知人から頂いた。さっそく読んでみた所、私のような洗礼を受けて日の浅いカトリック教徒にとって大変分かりやすくキリスト教の核心が述べられていた。この本は300ページを超える大部であるが、その「核心」部分をざっと抜粋してみた。

ジョルジュ・ネラン神父は、1940年フランスに生まれ、1950年司祭叙階、1952年に宣教師として来日。1962年にネラン塾開設(~1966年終了)、1970年真生会館理事長を経て、1980年スナックバー・エポペ設立し、サラリーマンを対象に宣教に取り組んだ。2011年死去。
 
ネラン神父は、戦後始めて留学生として渡仏した遠藤周作他を個人的に財政支援していたことでも知られている。来日後も遠藤周作と生涯にわたる親交があった。遠藤周作の小説「おバカさん」は、ネラン神父がモデルであった。

キリスト教とは何か?

キリスト教とは何であろうか。まず、キリスト教は思想体系であろうか。すなわち、世界の存在理由とその目的、そして特に人間の存在理由とその目的を教えているからである。しかし、キリスト教に思想体系の一面があるとしても、キリスト教は思想体系ではない。キリスト教の中心はキリスト自身であり、その言動が人間の存在理由を指し示している。

キリスト教はまた、道徳体系であろうか。キリスト教は「愛」を教えており、その愛を土台として、十戒を守るよう教えているからである。もっとも愛を教えているからといって、キリスト教の核心が愛であるという意味ではない。キリスト教の核心はキリスト自身であるからである。

さらにまたキリスト教は、「キリストの教え」であろうか。いやキリスト教は、「キリストの教え」というよりは、「キリストに関する教え」である。従って、キリストが何を教えたかということよりも、「キリストはどういう方であるか?」という問題の方がはるかに重要である。

2000年前に生きていたキリストが今もなお、神の子として生きている、という信仰が、キリスト教の土台である。換言すれば、「十字架で死んだキリストは、復活し今でも生きている」ということであり、これこそがキリスト教の中心である。

キリスト教とは、「キリストの教え」であると考えられがちであるが、それであるならばキリスト自身の生涯は二次的な問題となってしまう。信者にとっては、「その教えにさえ従えば十分」となってしまうからである。しかしキリスト教は、「キリストの教え」ではない。キリスト教の核心は、「キリスト自身」、さらに言えば「キリスト自身に関する教え」であり、「キリスト自身へ導く道」であり、「キリスト自身に出会う場」である。

キリスト教のメリットは何か?

キリスト教を信じることによってどんなメリットが得られるのか。まず、キリスト教を信じるのは、この世で出世したり富を築いたりするためではない。キリストを信じるから病気にならないとか、幸福な家庭を築き上げられる、ということでもない。キリスト教は「なぜ人が不幸に出会うのか」という問いには答えない。キリスト教のメリットは「人に生き甲斐をもたらすこと」である。「人は何のために生きるか」と自問しない人はいない。その問いにキリスト教は答える、「キリストのために生きる。それは素晴らしい生き甲斐をもたらす」と。

イエスの誕生は神から人間への「またとない賜物」

人間の一人であるイエスは、同時に神の御子として神性を有する。イエスの誕生は人間が神性を受け得ることを示している。神の御子が真の人間になったのだから、当然、人間は本質的に神に到達すべきものである。神への道は、キリスト自身の生き方に倣うことである。

神には計画があり、自分を象って人を創造した。人間は本来、神の似姿なのである。もっとも父なる神の完全な似姿は、神の御子のみである、こうして御子は人間として生まれたので、全ての人はキリストの姿に倣い、キリストと共に神の似姿になるよう招かれている。キリストは本性により神の御子であるが、人間は恵みによって神の子になれる。

「キリスト教」とは「キリスト自身との出会い」

繰り返すが、「キリスト教」とは「キリスト自身に関する教え」であり、その核心は「キリスト自身との出会い」である。キリスト信者は、当然ながら、まずキリストが今も現に生きていることを前提とする。さらにその核心はもう一つの前提を含んでいる。それは「キリストは信者が語りかける相手である」ということだ。キリスト教とは「生きているキリストとの出会いである」。

イエスの復活----復活は史実を超えた真実

イエスが十字架上で死んだのは疑い得ない史実である。そして「十字架上で死んだキリストが、葬られて3日目に復活した」と、キリスト教は教えている。それは何を意味するのか。それは一度死んだ後、死ぬ前の状態に戻ったという意味ではない。キリストの復活は「キリストが今も生きている」こと、そして「キリストは永遠に生きる」ことを意味するのである。キリストは現に生きている、目に見えない形で。復活したキリストの身体は、時間と空間という次元には置かれておらず、いつかもう一度死ぬ身体ではない。

「復活」の重点は、「キリストが今も生きている」ことに尽きる。従ってキリストの復活を信じることは、ある日イエスが復活したという出来事を認めることに留まらず、「キリストは本当に生きている」と認めることである。

キリストの復活は史実であるよりも、真実であると言わなければならない。歴史学の世界で「史実」とは「時間と空間という次元において本当に起こった出来事」と定義される。すると「キリストの復活」はキリストが時間と空間から脱出したことを意味するので、史実と見なすことは難しい。しかしキリストが生きているのは真実である。

私にとって「復活」とは?---イエスは生きている

私にとってキリストの復活は、単なる史実に留まらぬ「真実」である。福音書の伝える出来事----空になった墓、さまざまな出現(姿を現したこと)など----はそのままでは信じ難い。弟子を信じさせた何らかの出来事が起こっていたはずだと考えるとしても、復活それ自体の目撃者はいない。復活は「三次元のこの世からの脱出」なのだからである。「史実とは、写真に写りうる出来事である」と定義される。その定義によるなら、復活は史実ではない。復活は「地上のイエスが歴史を超えて神のレベルに達すること」を意味するのである。

一方、復活は真実である。より正確に言うならば、信仰の対象は復活という出来事よりも、イエスが今も実在している、つまり生きているということである。生きているイエスの生命は、神の生命と同じである。信者が日頃唱える「信仰宣言」がそれを明言する、「死者のうちから復活して、父の右におられる主イエス・キリストを信じます」と。生きているイエスの姿は目に見えないが、その臨在は真実である。

「イエスの臨在を信じない人は無神論者」

日本に来てからキリストを知らない大勢の人に出会った。彼らは人間的に生きており、人格的には何の欠陥も見えなかった。日本は、戦後、目覚しい経済的復興を為し遂げただけでなく、高い社会道徳を保ち、さらに人権擁護や社会福祉にまい進する人も多い。しかしその人々の中にキリスト教徒はほとんどいない。

キリストへの信仰が無用と思える日本において、宣教師である私の存在理由が問われることになった。まず考えなければならないことは、キリスト教の「真実―イエス・キリストの実在」は証明できないという事実である。信者には信憑性をもつしるしが見えるが、信じない人を納得させる証拠にはならない。たとえば神の存在の証明という議論は、信者に限ってのみ説得力を持つに止まる。信仰の証明が無いのだから、信じない人が圧倒的に多いのは当然のことである。

キリスト教を教えるという立場にあっては、「信じるべきこと」の中心は、「イエスの臨在」である。イエスが生きているという信仰を土台に据えて初めて、聖書の意味が光を放ち、神の計画や教会の神秘を悟ることができる。つまりキリスト教の様々な信仰箇条は、全てイエスが生きているという事実のみに立脚する。

「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」というイエスの言葉を私は信じる。そしてその基礎は「復活」に他ならない。加えてイエスが生きているという信仰を宣言できるかどうかが、正しい信仰の試金石だと断言したい。もし私がイエスの臨在を信じなくなったら、その瞬間、直ちに私は無心論者となる。

福音記者・ヨハネが伝えたかったこと

ヨハネ福音史家は、「『キリストが神の御子である』という表現」に含まれる深い意味を伝えようとした。即ち、「神の子とは、一人の人間が神と密接な関係を持ってきた、ということでなく、キリストが父なる神の御子であることを意味する」ということを。それを伝えようとするヨハネは、「みことば」という語を用いて「イエス・キリストは受肉したみことばである」と書いた。また福音の冒頭に「初めにみことばがあった」と書いて、御子が永遠に存在することを示した。「みことばは神と共にあった。みことばは神であった」という文章は、少々矛盾するように聞こえるが、「みことば(御子)は父なる神と共にあった。みことばは神性を持つ」と解すれば矛盾はなくなる。

「洗礼」―イエスの招待に応じる決意表明

キリスト教とは「イエス・キリストに従うこと」そのものである。2000年前から現在に至るまで、教会の声を通して「私について来なさい」とイエスは繰り返し呼びかけている。イエスの姿を追う数え切れない人々が徹底的にイエスに従ったことにより、殉教を成し遂げた。日本にもかなりの数の殉教者がいることは歴史の示す通りであるが、キリストを信じる人は、それによって心の平安と生き甲斐を見出している。

「キリストを信じる」ことを宣言するために、人は洗礼を受ける。初代教会の時代から続く慣わしだ。キリスト自身、自分をこの世に派遣された「父なる神」を信じることを表明するため、ヨルダン川のほとりで授洗者ヨハネから洗礼を受けた。その「信仰表明」の仕方は2000年後の現代まで続いている。

キリストによる自由―過去からの自由

社会は人の罪を赦さない。罪を犯した者には有罪の判決を下す。刑を終えても「前科者」の烙印が付きまとう。ところがキリスト教においては、罪人は赦される。罪を認めさえすれば、神がそれを必ず赦す。だから信者は良心の呵責を感じなくて済む。信者は自分の過去から解放され、いつも新しいスタートを切ることができる。

「司祭の独身制」-神の国の超越性を体得するために

司祭が独身であるのは、独身が経済的に楽であるからとか、家族に縛られないからという理由からではない。そもそも独身は「神の国に属することの証明」としてのみ存在する。神の国の超越性を教えるためではなく、それを体得するために、修道者はこの世の次元を超える状態に身を置く。

「独身」という制度は、殉教の代わりとして発生した。即ち、キリスト教帝国で殉教する機会がなくなった頃(4世紀)、熱心な信者たちは最初の修道院を建て、その(独身での)修道生活を殉教の代わりと見做していた。

原始キリスト教時代、信者にとって殉教は信仰の完成であった。しかし殉教を望んで遂げられなかった者には、もう一つの道があった。それが貞潔を守って独身生活をすることであった。従って「独身は、殉教に代わる献身」と考えられるようになった。キリスト教徒を殉教へと駆り立てる情熱も、独身を貫かせる情熱も、根本的には同じ性質のものだということをはっきり知る必要がある。

「司牧」と「宣教」

「宣教」とは「信者でない人にキリストを紹介すること」と定義しよう。宣教が教会の重要な使命であることは新約聖書に十分に示されているし、キリスト教の歴史もそれを示している。「教会はまさに宣教するために存在している」というパウロ6世の言葉を引用することもできる。

ところが日本の教会の現実を見れば、聖職者の間にも信徒の間にも宣教熱はいささか乏しい。その理由は色々考えられる。例えば、『日本人にとっては日本教*で充分である』という信念が強いこと、『キリスト教は実生活の上に何のプラスももたらさない』と思われていること、日常会話で宗教という話題はタブーであること、などがあろう。宣教熱の欠如がどれほどキリスト教を疲弊させるかを見逃してはならない。年毎に日本人の信者数が減っている現実から目をそらさないでいたい。

現在、日本ではキリストを信じる人は人口の1%に過ぎない。だからキリストを信じない残りの99%の人々に福音を宣べ伝えることが、日本の教会の喫緊の課題である。

信者がこの課題に取り組むに当たって、「司牧」と「宣教」とを明確に区別する必要がある。司牧とは信者に対する働きかけであり、宣教とは信者でない人に対する働きかけである。「司牧」の場は小教区(地理上の単位教会)である。ここで一つ重大な問題がある。つまり、現在、小教区が「司牧の場」であって、「宣教の場」ではないという事実である。小教区は礼拝の場であるが、同時に聖歌隊やバザー等、様々な活動を催す場ともなっている。こうした活動を通して小教区は家庭的な雰囲気を作り、親睦を図ろうとする。その良し悪しは別としても、小教区には宣教を目的とする機会が無い、という点に注目すべきである。
 
宣教の場
 
宣教とは、信者が信者ではない人のもとに自ら赴き、そこでキリストを教え、できれば洗礼にまでその人を導くことである。その意味で、ひところ、もっとも適切な場は、学校、つまり幼稚園から大学までのミッションスクールであった。しかし現在、大多数がキリスト教とは無縁の存在になりつつある。ミッションスクールによる宣教の時代はすでに終わったと思っている。
 
私が新宿で「エポペ」(『美しい冒険』の意味の仏語)という名のスナックバーを開いたのも宣教の場を作るためであった。『酒が入らないと本音を吐かない』という日本人のために開いたのだが、80%は非信者であった。結果として、5年間で13人に洗礼を授けた。
 
宣教を実践せよ

「宣教」と実現するためには、二つの動きが必要である。まず司祭が教会から出て、働く人々の中へ入って行かなければならない。さらに二つ目として信徒がキリストの魅力を同僚や友人に積極的に宣べ伝えなければならない。

司祭は大抵、大学の神学部その他神学校を出ている。こういう特殊な背景を持つ者が一般人と意思を通じ合えるだろうか。神学校では司牧のやり方は覚えたかもしれないが、私の知る限り「宣教の仕方」は習わない。

一方信徒による宣教はどうであろうか。信徒はある程度キリスト教を知っている。しかし宣教するにはその知識を、キリストを宣べ伝えるにふさわしいレベルにまで引き上げる必要がある。ところが実際には信徒のキリスト教に関する知識は驚くほど低い。

宣教と言う動機を持ってキリスト教を勉強することは、取りも直さず信者ではない人にキリスト教をどう説明するかを身に付けること、である。換言すれば、キリスト教の核心をのべ伝えることに他ならない。三位一体、原罪、懺悔が信者ではない人の口から出るかもしれない。これらについて説明できるくらいの知識は当然必要である。ただしそれが中心ではないことを断っておきたい。キリスト教の核心はキリスト自身の他にありえない。従って宣教にとって肝要なのは、キリスト像をしっかり持ち、それを人に示すことである。

なお信者ではない人から「キリストを信じることに、どういうメリットがあるのか」、と問われることもあるだろう。それに対して「来世」や「救い」と答えることもできる。しかし「キリストは真の生き甲斐をもたらす」という答えに勝るものは無い。

「キリストは本当に実在する」ことを証明することはできないが、信じることは恵みである。さらに宣教は「私はキリストを信じる」という信仰告白にとどまるべきではない。「○○さん、信じなさい」というところまで進むべきである。キリスト教の良さの宣伝にうつつを抜かす必要はない。評判が良いにも関わらず人は踏み切れないでいるのだ。マンツーマンで「君!信じなさい」と言うべきである。

宣教の障害となっているものは何か

昔、ある宣教師が「日本におけるカトリック教会」を「箱庭」に例えた。この箱庭にはキリスト教の全てが入っている。16もの司教区、93の女子修道会があり、カトリック弁護士会から山谷友の会に至るまで、無数の信徒活動が整然と行われている。しかし「箱庭」の指摘から半世紀経っても、カトリック教はほとんど変わらず、依然として「箱庭」である。

一体、どうしてカトリック教会は伸びないのだろうか?この「信仰の自由」が保障された環境の中にあって、キリスト教が出世の妨げになることはほとんど考えられない。信仰を持つ著名な作家や学者も少なくない。教会の中を見れば立派な司祭や信者が大勢いる。それでもキリスト教が発展しないのはなぜか?

キリスト教はカトリックとプロテスタントに別れているが、これが発展の障害になっているとは思わない。エキュメニズム(キリスト教諸派を一致させようとする運動)の素晴らしい成果の一つに共同訳聖書がある。この邦訳版は、それ以前の翻訳版をはるかに凌駕し、見事な出来栄えである。

結論を言えば、キリスト教の発展を妨げている第一の障害は、あの「日本教*」である。日本人を含め、人間は誰でも「絶対」そのものに憧れているが、現代日本人が憧れている「絶対」とは、「日本そのもの」なのだ。

「日本そのものが絶対」だという主張において、『日本』は抽象的な存在であって、それを表す具体的なリアリティはない。しかし「絶対とされる日本」への信仰、つまり「日本教」は日本人の日常生活を貫いている。しかし明確に言っておくが、「絶対」そのものを求めるなら、それは「キリストのみ」なのである。

果たして「日本人は宗教心が薄い」は本当か

1865年3月17日、浦上村のキリシタン15人が大浦天主堂を訪れのプティジャン神父に信仰を告白した。これはキリシタンの子孫発見の歴史的瞬間であった(「信徒発見」)。

16世紀ごろからの禁教令の発布により1640年には神父が一人もいなくなった。それから250年間にわたり、幕府はキリシタンを厳しく取り締まった。信徒は見つかれば、磔刑(はりつけ)、火炙り、温泉地獄への投げ入れ、等、極刑を免れず、殉教者が後を絶たなかった。その数は2万人を下らないであろう。このような迫害下にもめげず、また一人の神父に接することもなしに、実に250年間にもわたって信仰を守ってきたのだ。この史実には感嘆する他ない。目頭が熱くなるほどだ。東西のキリスト教史を紐解いてもこれに匹敵する事実は無い。

私には「日本人は宗教心が薄い」ということの意味が全く分からない。どうにも理解に苦しむ。私は今、あのキリシタンたちの類稀な強さに打たれている。あれこそが「宗教心」ではないか。

宣教は信徒の努めである

宣教の中心は信徒である。キリスト教は生き甲斐を与える宗教である。病や苦労から人を助けることはできないが、キリスト教の説くアガペー(人間に対する神の愛、無償の愛)はエゴイズムの正反対で、人のために生きるということである。

今の教会は、目的が無いまま人が集まっているだけではないか。本当は日曜のミサに来て、「この一週間、私はこういう宣教をしましたよ」と言えるのが教会である。神父も信徒も「教会は忙しい」と言っている。現状、一番忙しい仕事は会議をやって紙を使うこと。たくさんの紙を使って議事録を作り、会議で疲れて、教会自体は何も変わらない。

信徒の義務は宣教することである。教会の維持と運営のことばかりやっていると、外に向かっていかない。これは小教区の一番の問題である。教会内の親睦を図る?それは非キリスト教的努力である。

福音書に示されている「宣教命令」

マタイ福音書を読むと、「宣教こそキリストが私たちに求めていることだ」と分かる。マタイは「見よ、乙女が身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」と書き起こし、続けて「この名は『神は我々と共におられる』という意味である」(1-23)と、キリストが私たちと共にいることを強調した上で、福音の最後をこう締めくくっている。「さて、11人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示された山に登った。そしてイエスに会い、ひれ伏した。しかし疑う者もいた。イエスは近寄って言われた。『私は天と地の一切の権能を授かっている。だからあなた方は行って、全ての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことを全て守るように伝えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる』」(28-16~20)。マタイ1章と28章に据えられた二つの文章を読めば、マタイが初めから宣教を意識して福音書を記しているのは明らかである。

よって宣教しなさい

宣教では身近なマン・ツー・マンで話し合うことが決めてとなる。つまり宣教の役割を担うのは司祭ではなく、信徒その人なのだ。

次に大きな問題は、「宣教活動で何をするか」である。宣教の際、「キリスト教は『救い』だ」という言い方をしない方がよい。少なくとも病気から救われることはないし、貧困からも救われない。暴行や戦乱の恐怖からも救われない。教会は「罪そのものから救われる」と言いたいのだが、一般の人々は罪を認めないから救いの話には説得力がない。また宗教に関する話し合いは不毛だと思う。

それでは何をテーマに話したらよいか。私は「生き甲斐について問いかけること」だと考える。問いかけられた人は、自分にとっての生き甲斐は何か、と真剣に考えるだろう。ただしあくまで問うだけだ。もし生き甲斐を積極的に語ってくれる人があれば尊重しなければならない。そこであわててキリスト教を紹介することは避けるべきである。信仰は折伏ではない。相手がキリスト教を自発的に求めてくるのを待たなければならない。

最後にひと言

宣教をしようとする信者が少ないのは何故か。マタイ福音書28章18節を心底から信じることができないからだ。復活したキリストは天と地の一切の権能を授かっている。その「天と地の一切の権能」は霊的なことだけでなく物質的な事柄をも含むことを、信者は本当に理解して欲しい。続く19節の最初の「だから」という言葉を真剣に受け止めたい。「キリストの復活が事実だから、信徒はそれを宣べ伝える」のだ。<復活したキリストは、あらゆる面において世の未来を握っている>から信徒は当然、その真理を宣言するのである。

*日本教:「日本人のうちに潜在的に染みこんでいる宗教」という意味の、山本七平による造語。山本七平はその著「日本人とユダヤ人」において、日本人は自分が日本教徒であるという自覚を持っていないが、日本教という宗教が存在し、それは血肉として日本人自身も自覚しないほどになっているので、日本教徒の日本人を他の宗教に改宗させようとすることは「狂気の沙汰ではない」という。同氏によれば、日本教徒は、神ではなく人間を中心とする和の思想である。
また、プロテスタント牧師の奥山実は、芥川龍之介の『神神の微笑』で老人が神父に語った言葉「我々の力というのは、破壊する力ではありません。作り変える力なのです。」に注目し、「日本人は外来の全てを日本化してしまう」と指摘する。同氏によれば、日本教に絶対は無く、絶対者を知らない日本教徒は相対の世界に生きており、日本教の最大の特徴は「相対化」であるとしている。

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