「細部へのこだわり」から見えたもの

年末からの忙しさが少し落ち着き、今日から一週間ほど休暇を頂き海外に来ています。休暇中に読もうと、空港で何冊かビジネス本を購入しましたが、その内の一冊を昨日と今日で読みました。

ワクワクしながら読み始めたのですが、3ページ目で誤字を発見。最近ではミスタイプなどはあまり見なくなったので、少しびっくりしましたが、気にせず読み続けることにしました。結局、読み終わるまで3箇所も誤字脱字を発見しました。その度に段々と先を読みたい気持ちが薄れてしまいましたが、「偶々のミスで、中身とは関係ないはず」と自分に言い聞かせながら何とか読み終わりました。

そして読み終わってから、素直に心に浮かんだのは「時間がもったいなかった」という感想。これが一番伝えたいという著者の思いや、一貫したストーリーがなかなか見えず、通り一遍倒のノウハウを様々な情報源から掻き集めて出版したような感じを受けてしまう本でした。

「一個目の誤字で、少し読む気がなくなったけど、やはり予想通りだったなぁ。」と思いながら、ふと、私が自分なりには頑場って作ったつもりの資料を、誤字一つでも発見した日には「見る気がしない」と厳しく教えてくれていた、上司の顔が浮かびました。

入社当時、営業の仕事をしていましたが、小さい時から海外で生活をしてきた私は、初めて勤める日本企業で、特にお客様とダイレクトに接する営業の仕事で、大きなカルチャーショックを受けました。あまりに細かい仕事ぶりにです。
あらゆる場面において、仕事の先にいるお客様のことを考え、どんなに些細なことでも、あの手この手を工夫して前始末をしている。しかも、それが全部マニュアル化されていて、働く社員全員が大きいことから細部にいたるまで同じレベルのサービスが提供できるようになっている。

海外で、いわゆる「日本の国民性」というとイメージする「職人気質」とは、まさにこういうことだと、改めて感心したのを良く覚えています。実際、働きながら俯瞰してみると、職業としての「職人」に限ったことではなく、全般的に、何か物事に取り組む姿勢の根底に、細部に拘って極めていく心が潜んでいるなぁと感じることが多いです。

一方で、当時は、よくもここまで細かく仕事をしているなぁと驚きながらも、内心、「小さいことに、なぜここまで時間をかける必要があるのか。効率は何も考えていない。もっと時間をかけるべき重要なことが、山ほどあるのではないか。」と少しもどかしさも感じていました。

しかし、今となっては、そんな自分の効率やプライオリティ云々の考えが如何に幼かったか、「細部まで気を配る」ことは、効率良し悪しの問題ではなく、もっと本質を辿ると、自分が取り組んだ仕事への執念そのものであることに気づきました。そのきっかけとなったのが、営業部からあるプロジェクトに異動して出会った上司の教えでした。

そのプロジェクトは、会社の経営トップの直下チームとして、重要書類の作成、編集や発信を担当し、すべてのプロセスにおいて一切のミスが許されないような仕事でした。
高い基準と責任感を持って一つ一つの仕事を確実に完遂しなければいけない。それを良く理解していたので、とにかく丁寧に確実に仕事に取り組むことを心がけ、できあがった資料は何度も確認していました。
しかし、最終確認をもらいたく、いざ上司に提出すると、なぜか穴だらけなんです。

誤字脱字もあれば、主語が抜けていたり、言葉の使い方が明らかに間違っていて、人に伝わるような文章になっていない箇所もある。
何度か上司にこっ酷く怒られて、「次こそは絶対に!絶対に!気をつける」と思ってもなかなか直らない。
そんなある日、自分に嫌気がさし「向いていないなあ。もう辞めよう。」とひどく落ち込むようなことがありました。すると、上司はある仕組みを私に教えてくれました。「社長資料のみならず、日頃書くメールやMT資料含め、人の前に出すものは、すべてプリントアウトし、赤ペンでアンダーラインを引きながら一文一句確認する。それを毎回必ず2度繰り返す」ということでした。

最初は、ここまでやるのかと一瞬思いましたが、相当悔しい思いをし、より成長できるのであればなんだってやると決めていたので、いろいろ考えるぐらいだったら、とりあえず上司を信じて言われた通りにやってみようと思いました。

そんなスタートから、半年後、自分でも驚くようなことが起きました。

まず、誤字脱字を防ぐ為に始めた仕組みだったので、絶対に誤字脱字を発生させように集中し、さすがに2回も赤ペンを入れながら読み直すので、初歩的なミスが格段と減りました。

更に、2回読み直す内に「この表現は少し変だなぁ」ということも徐々に見えてき始め、もっと良い表現がないかと思いながら、何度も書き直すので、人に資料を出した時に、文章が読みやすいと言われるようになりました。

その内、「自分がこの文章を読む人だったら、これで伝わるのかなあ」、
「今回この件を提案するのは○○さんである。日頃接してきた○○さんの性格を踏まえると、こういうことを疑問として思うだろう。そうなったら、何て答えれば理解してもらえるのか」という視点も生まれ始めました。そうすると、文章に違和感を感じた時はその書きっぷりのみならず、「本質的には、資料に込めた自分の意志や戦略自体に問題があった。まだまだ考えが浅かった」などといったことも気付けるようになりました。そして、「相手に理解してもらえる為に」、「相手に協力してもらえる為に」、「相手にもっと喜んでもらえる為に」といった、いろいろな「相手の為」の視点が自分の中で生まれ始めました。

不思議にも、こうやって込めた思いは、口で言わなくても相手に伝わるものであり、徐々に「仕事の仕方が丁寧」、「信頼できる」、「いつもこっちの立場を考えてくれてありがとう」、「あなたが頼むことなら協力したい」と、プロジェクトに関る様々な人から信頼が集まりました。また、なかなかの「強敵」であった上司は、以前なら、企画書を出しては、説得どころか、いろいろ突っ込まれては却下されることばかりでしたが、「深く考えたね」と褒められ、提案が通る回数が増えていきました。

何より嬉しかったのは、そういった周りからの「信頼」を感じたことによって、やがて少しずつだけど確実な仕事への「自信」が自分の中で生まれ始めたことでした。

このすべての変化が、上司が私に課した「赤ペンの仕組み」から始まっていたのです。表面だけを取ってみると、初歩的なミスを減らす為の対策に過ぎないかも知れませんが、自分の仕事に自ら高い基準を求めるよう、私の仕事のスタンスを見直させる為の深い真意がこもっていたのです。

ご経験ある方も多いかと思いますが、社会人生活の中でいろいろな人と一緒に仕事をしていると、些細なところで見せる反応から、その人のより深い一面、少し大げさに言えば人となりや価値観みたいなものが垣間見えたりします。些細なこと一つを雑にやる人は、大きなことを任されても結局雑にやってしまいがちですし、逆に小さなことでも丁寧に一生懸命やる人は、何事にも真摯に向き合う「習慣」が身についているので、大きなことも確実にやり切る確率が高いと思います。

また、何かに対する熱意が高ければ高いほど、「これが本当にベストなのか、本当に自分にできる最大の努力をしたのか」ということを絶えずに自問自答しながら誠意を尽くして取り組むので、当然ながら細部の隅々まで何度も何度も自分の「仕事」を振り返ります。すると当然ながら、小さいミス、初歩的なミスは発生しないのです。

細かいことまで気が配られているということは、その物事が出来上がるまでに取り組んだ人の「想い」、「熱意」であり、かけた努力の証である。また、「神は細部に宿る」という言葉通り、何か物事に取り組む時に、熱意とベストを尽くせば、結果的にその「想い」が人の心も神様をも動かし、ことが成すのである。

こういったことを教えてくれた上司の優しい心に、再び気付くような出来事でした。


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