シン・AIがとまらな(ry

AIによる画像生成が嫌いだ。というか、AIによる生成画像を販売して絵師を名乗る連中が嫌いだ。
私自身、はっきり言って人にお見せするレベルではないものの、過去にTRPGの自キャラやらの全身絵などを描いていたこともあり、絵を描くという事がどれだけ大変なものか、どれだけ貴重なスキルか、というのを多少なりと実感しているので、それを単なる学習素材として堂々とパクり、ツールを使って多くの過程をすっ飛ばして吐き出された生成物を、得意げに「自分で描いた」などと言われるのは我慢ならない。

我慢ならない、のだけども、少なくとも現時点では「やめろ」と言えないのが……本当につらいし心苦しい。なぜなら『取り締まるための法整備』がまだできてないからだ。この辺、私が転売ヤーに対しても感じているのと近い感情なのだけれども、『はっきり法的にクロと言えないのなら、安易に排除してはならない』というのは法治国家においては当たり前の話、のはずだと思うので。

もちろん、「法律で禁止されてなければ何をやってもいい」とは思わない。校則や社則、個人間の契約等々、守らなければならないルールというのは数多くあるし、そうでなくても私たちが円滑に社会を構成するうえで「やるべきではない」「やったほうがいい」といった規範は大切なものだと思う。だけど、AIイラストについては私自身は自称AI絵師でも『学習の為にイラストをパクられた絵師』でもない、『事情を聞いて憤る野次馬の一人』でしかないのだ。そんな人間が何百人何千人居たって、それで法律上の結論が覆ったらもう法治国家じゃなくなってしまう。
尊敬する白饅頭先生の過去の指摘にあるのだけど、

だれからも快く思ってもらえる人や行為の自由など、そもそも人類社会に「自由」なる概念が発明されていなかったころからすでに十分すぎるくらいに自由だっただろう。
 「自由」とは、そういう市民社会の「素朴な良識」をベースにして判断すれば賛同や擁護が得られない可能性のある人や行為の権利を守るためにこそ市民社会が作り出した(≒政治権力に遵守を約束させた)概念である。
 
 つまるところ、「自由」とは、ほとんどの人から共感されたり同情されたり応援されたり理解されたり快く思われたりすることのない存在のためにこそある概念なのだ。
 にもかかわらず「快い存在にのみ自由があるべきだ」とか「社会的に望ましいものだけが自由として認められるべきだ」というのは、「自由」という概念を真っ向から否定する、矛盾した言説であると言わざるを得ない。

白饅頭日誌:7月25日「大きな言論の自由とその代償」

この言葉はとても大切なものを示していると思う。
つまり、たかだか野次馬でしかない我々が「気に入らないからAI絵はやめさせるべき!」と拳を突き上げるのは、この自由の否定になってしまう、と考えてる次第だ。
(もちろん、学習の為に絵をパクられた絵師本人が「自分の絵をパクるの禁止!」と声を上げるのは真っ当な権利の主張と思うので、どんどんやってほしい)

まあ、AI画像生成はいずれ法規制されるのは間違いないだろう。なにせAI画像生成技術自体が、ディープフェイクの問題もあって、著名人や政治家の皆さんとしても他人事では済まないのだから。ただ、今の政府はあらゆる方面に問題を大量に抱えすぎて、優先順位がわけわからなくなってる部分もあるので……なるべく多くの絵師がやる気を失って筆を折る前に、早く何とかしてほしいとは思うのだけれど。

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