反出生主義と絶滅主義

 少し前まで、私は反出生主義に取り付かれていたことがある。当時の私にとっては、反出生主義は論理的にも倫理的にも正当性を持ったものとして映った。今でもその論理的一貫性を否定するわけではない。しかし、過去の私が反出生主義に入れ込んだのは当時の私が全く功利主義的修正(日和見)主義者に他ならなかったからである。

 私は反出生主義を功利主義がたどり着く一つの終着点であると認識している。反出生主義の論客であるデイヴィッド・ベネターの著”Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence”において、生まれてくることは常に災難であるとする。その理由はひどく単純化してしまえば、人生において圧倒的に快よりも苦の方が大きいからである。彼のこの主張は功利主義的に考えれば全く正当であろう。快から苦を引き算し、快の値をできるだけ大きくするというのが最も原則的な功利主義の立場である。意見の分かれるところかもしれないが、この世は苦の方が絶対的に多い。少なくとも私はそう思う。何せ最終的に快を受ける主体は必ず死という終わりを迎えるのである。快を求める者にとって、これはさぞかし苦痛であろう。ともかく、快苦を受ける主体がこの世からあまねく消え去ってしまえば、快苦計算は0に等しくなる。現状、快苦計算はマイナスの値を示しているだろうから、これは功利主義的に大きな前進である。全くなんて素晴らしいことか!

 では、反出生主義はどうやって全生命を滅ぼそうというのか?いやはや、さぞ素晴らしい考えを持っているに違いない。しかし、反出生主義はここで詰まってしまう。彼等はあまりにも功利主義的で倫理的過ぎた。今存在する生命全てを抹殺することは苦の値が大きすぎて許容不可能であると言い出す。さらには殺人は倫理的に許されることではないとも。彼等がすることと言えば啓蒙活動とヴィーガンになること、あとは殖えないようにすることくらいである。反出生主義者たちは緩やかな絶滅を待ち続ける。なんと悠長なことか!反出生主義者は世界に対してあまりにも受動的で無力である。彼等は倫理的に無謬の存在たり得ても、世界を変えることができない。そういう意味では私は戦闘的ヴィーガンの方がまだ支持できる。肉屋を襲う彼等はその行為の是非は置いておくとしても、主義者として能動的に世界を変えようと行動を起こしている。

 私が反出生主義を捨てたのは畢竟それが無力であることと功利主義の延長に過ぎなかったからである。その思想は実存を満たすものではないし、ニヒルになる方向がずれている。(死と苦痛を肯定する思想、私はそのようなものを漠然と抱いているがまだ体系化されておらず煩雑になるので省略する。)ヴィーガンを名乗り、ヴィーガンのためのレストランに行く反出生主義者は多くいるようである。自らが資本主義、つまり現状の世界の内部に取り込まれ、その発展と維持に寄与していることにさえ気づけない大馬鹿共はせいぜい世界に怨嗟の声を上げて死んでいくがいい。

 絶滅主義は反出生主義と似ているようで全く異なる思想である。絶滅主義者は自ら全ての生命、いや全世界全宇宙の破壊を求める。そのためにはあらゆる手段を厭わない。彼等が絶滅を願う理由を私は知らない。しかし、それが功利主義や倫理から来るものでないということだけはわかる。能動的ニヒリズムの極致。それはどのような世界であれ絶対に拒絶する思想である。それはいつ如何なる時も全てのものと敵対する思想である。故にそれは世界で最も革命的な思想であると言うことが出来るだろう。

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