見出し画像

表現が不自由であること、美術について語れなくなったこと

表現が不自由であること

中山可穂の小説「愛の国」では、政権による黙認の下、同性愛者に対するヘイトが高まった日本で、同性愛を扱う演劇を上演するシーンがある。そこでは同性愛を表現する事が命をかける必要のある世界での、表現というものの緊張と狂気が語られる。劇団員に投げつけられる礫、塩酸、暴言、暴力。その中でなお表現が必要であることの理由。あるいは、そこまでする必要なんてない理由。
2015年の作。中山可穂はそれまで政治の話をしないレズビアンの恋愛をメインに描く作家だった。政治も、レインボーフラッグも、興味がないとまで言い切った作家が、それを描いた。

それから4年、従軍慰安婦や天皇制がテーマに含まれる作品を扱った展示が「ガソリンを撒く」という暴力の示唆により中止になった。

『平和の少女像』は本当に政治でしかない作品なのだろうか?私は実物を見に行けてないからそれはわからない。ただ、それを考えることのできるはずだった場所は今回は奪われた。
本当にそれは美的な側面の一切ない作品だったんだろうか?それは美術の中に位置づけできない政治的意味しかもたない作品なんだろうか?私たちはそれをもう作品を目の前にして考えることが出来なくなってしまった。暴力によってその機会が奪われた。
平和の少女像が美術作品としてどのように鑑賞でき、彫刻史の中にどう位置付けられるか、そういう細かくて繊細な事を語れる展示だったら良かったと心から思う。
政治性と美術は分けられない。でもある場合には一見政治性のないものに政治性があり、一見美術的ではないものに美術性がある。とみなされる。それを考えることのできない状況がどのように作られたのか。
そういったことを考えるための時空、そして作品の価値と文脈が蛮行によって簒奪された事が酷く、それに対抗していくには淡々と美術について考えるしかない。

でも同時にそれは一つの側面に過ぎず、議論ではなく暴力に対峙しないと表現が出来ないと言う状況が、悪意と政治と権力によって生み出されてしまった事は最悪。さまざまな面でマイノリティな私は出歩く時や主張する時に暴力に会う可能性を常に考え怯えていた。

私は高度に政治化された身体を持っていて、それと関わらず生きることはできない。車椅子、障害、性、さまざまな形で私は暴力を受けやすい身体を持っている。
そしてそれは同時に、私の活動は一切が政治的で社会的な意義を帯びる。私が車椅子で大学に通うことは法律や政治と密接な関わりがあり、社会改革を存在するだけで要求する。好む好まないに関わらず、私はそうあってしまう。あるいは、同性の恋人と路上で手を繋ぎキスをするとき、私は歴史を意識せざるを得ない。
政治性を意識せず生きられる、それを分けることができるというのは、私にとっては特権。私は日本に住む日本国籍を持つ両親から生まれた日本国籍を持つ人間であり、それを意識しないで済むのは私の特権。そしてそれは多分、人を踏みつけている。
一方で、私は表現においてそれをフルには使っていない。なぜなら全部を開示してフルに私のそれを表現に使えば、実生活含めてさまざまな暴力にあうことを容易に想像してしまうから。私の表現はすでに封じられている。
それでもなおレジスタンスをしながら表現をしていく中で、暴力によって鑑賞者が寄り添う場が失われてしまった。日本に住む鑑賞者が果たすべき義務が奪われた。
マイノリティにとって政治や社会は自己と切り離せず、そしてそれ故に表現は自由ではない。でもそれは本来誰もが同じであり、単にそうではないという演技をしているからだと感じる。
だから、私たちにはそうした表現に向き合い、自身の加害性と特権性を認識する責任がある。

私は表現が命がけであるような世界にはいたくない。たとえ、三年前の相模原以来、私の生存が私が存在するだけで脅かされているとしても、それが全てに広まる世界など見たくない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?