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東山彰良の「僕が殺した人と僕を殺した人」に殺された人 二重写しのアイデンティティ

東山彰良の「僕が殺した人と僕を殺した人」

とても高度に計算され尽くした小説だった。

それはアイデンティティをめぐる物語で、確立し得ない自己と確立してしまった自己と確立できた自己の間の微妙な距離感を語る物語。

物語の舞台になるのはふたつの異なる時間と空間。二重写に重なる過去と未来が、主人公達のアイデンティティの挫折と成功を物語っていく。

ひとつは2016年のアメリカ。トランプ旋風が吹き荒れるアメリカで起きた連続殺人。もうひとつは1984年の台湾。外省人(戦後に台湾を統治した大陸から来た人々)と本省人(元からの台湾住人)の微妙なしこりの疼くような政情下での三人の少年の物語。それが交互に語られていき、そのたびごとに、喪失したものと得たものの対比が少しずつ少しずつ、彫刻されていく。

スタンリーキューブリックが撮ったスタンドバイミーとでも言うような陰鬱さを湛えた少年時代。それにアメリカでの殺人犯と面会する弁護士の羊たちの沈黙風の物語が絡む。一つ一つはエンタメ的な物語が重層的に展開されることで、それはセクシャリティを含む確立しえたアイデンティティと、確立しず逃げるしかなかったアイデンティティとを冷酷に浮かび上がらせる。

全体の構成はデヴィッド・フィンチャーばりのスタイリッシュな演出で進行し、冷静に計算された展開で明かされ終局する。あらゆる出来事の伏線は回収され、あらゆる感情は語り尽くされる。国籍や言語、ゲイ性といったアイデンティティは収まる所へ収まり、登場人物たちはそれぞれの人生をいきる。現実の政治的課題への静かな言及や、セクシャリティをめぐる物語なども含めて、かなりフェアに終わる物語の中で、けれども最も核心的な事柄には沈黙だけが残される。いかに自己を形成出来なかったのか。ということについては。それは沈黙と忘却の中に傷として、反響し続ける。

小説のラストにおいて、主人公のアイデンティティ形成に重大な影響を与えたであろう場面の回想が語られる。1984年。ひりつくような気配の中で、主人公はガジュマルの木陰に涼んでいた。

語られたことと、語りえないこと。

二つの狭間で、読者は取り残され自身の問いかけと向き合わざるを得ない。それがただ内省的な問いかけに終わらない広がりを、物語を通して作っている点が、私には好ましかった。

ふと思い出す。私がこの小説を知ったのは、渋谷のハロウィンの時だった。仮装した個人の群れを見ながら、この小説を本当に些細なきっかけで勧められた。小説では物語の核として、台湾の布袋劇とAKIRAが使われている。確か私たちはハロウィンの列を眺めながら、サンダーボルトファンタジーの話をしていたのだった。そしてなんだか、そういう時に勧められるのにふさわしい小説だったな、と今になって思う。

雑記

作中では、大友克洋のAKIRAが出てくるけど、どっちかというと松本大洋っぽい。

大友克洋にダヨウコオヤンとルビを振り、金田と鉄雄にジンテイエンとテイエシヨンとルビを振る。こう言うルビの使い方最高だと思う。あと日本統治時代って単語にわざわざカッコで注釈が付いてて、(日清戦争による割譲から第二次世界大戦終結までの約五十年 )ってあるのは凄い皮肉だと思った……知らない人多いよねごめんなさい…

84年という時代への郷愁と同時に、80年代のジュブナイル的なアメリカのミステリやサスペンス小説に対する郷愁が二重写しになって滲む感覚が独特の雰囲気を形作っているのかも。

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