押井守監督の女性観への反論 19世紀と子のディストピア

私は今ショックで冷や汗ダラダラしている。『押井監督の女性観について教えてください』(https://lp.p.pia.jp/shared/cnt-s/cnt-s-11-02_2_9d6af97a-df0f-4fab-90f1-ad4c24cc19ad.html )というあまりにも凶悪な記事が出てきたからだ。ここで語られる女性観は端的にいって酷いし破綻している。


このnoteでは押井守ファンの一人として、押井守のインタビュー記事(以下女性観インタビュー)に反論を加えるものである。



序論 お気持ち(とばして)

日本のオタクをやりながらフェミニストという人は多い。それはいくつかにことに耐えたり無視したりしながら消費することだし(たとえばミリタリ描写が全部間違ってるコンテンツしかないという感じと言えば伝わる?)、仲間がいないとも思わさせられる(実際は多い)。
ただ何よりしんどいのは公式からお出しされる極悪な文章である。
そして私は極悪な文章を見ながら苦しんでいる。
しかもそれは押井守監督からお出しされたのだ。はっきり言うが私は押井守に詳しい(マウント)。女性観インタビューは連載記事の一つだけど、私はこれまでの22回全部読んでる。押井守の海外論文も読み、押井守のフェミニズ性とクィア性とその限界を考えてきた。(意外かもしれないけど、英語圏では押井による攻殻機動隊は一部のフェミニストによって語られてきた。イノセンスに出てくるハラウェイはダナハラウェイというフェミニストの引用だ。現在のこうした文脈での押井守の引用は日本の一部フェミニストにより行われている。https://bijutsutecho.com/magazine/insight/20349 とか)。
で、その押井守監督から極悪な女性論がお出しされたのである。突然山に登り始めた馬謖を見る気分。はっきり言って吐きそうな気分。胃が痛くて死にそうだけど義務感で書く。お気持ちはさておき。

敬具押井守様

散々押井守監督から、大事なことは面倒でも初めから考えろ、と習ったので、その通りに女性観について考えました。大事なことです。


第一章 押井による男女観のまとめ

この女性観インタビューで出てくるロジックを引用を交えて五段階に分けて要約する。

まず押井は



〝「男と女という2種類の人類がある」というのが正しい。人間に種類があるのではなく、もともと別の生き物だったということに気づいたんです。〟

という命題を立てる。
押井はこの理由を


〝それは、子供を生めるか生めないかという生き物としての違いです。これこそが決定的です。〟

と説明する。さらにここから発展して


〝男は不完全だという感覚を抱いて生きている。だから死ぬとき、往生際が悪いんです。男には戦争と文化しかない。経済もあるけど、それは限りなく戦争に近いから。〟
〝女性の場合は歴史を作る必要もない。なぜなら自分自身が歴史だからです。〟

と押井は論じ、インタビュアーからの現在の#MeTooをはじめとするフェミニズムをどう考えるかという問いに対して


〝一部のフェミニズムの女性たちの発想がよくないのは「男並みに扱え」というところ。私はこれがダメだと思っている。〟

として男性より女性が優位であるとして、女性が男性の価値観に縛られているとしたうえで

〝結局はその価値観から逃れていない。女性であることに本質的に自覚的であれば、そういう発想は生まれないはずです。
フランスでは女性の参政権が戦後に確立された。時間がかかった大きな理由のひとつには、女性自身が参政権に反対したということがある。フランスの女性たちは「私たちは誇り高い女性なんだ。政治などという俗世間に関与させるな」「私たちには他にやることがある」「女性としての教養を高めなければいけない」という考えを持っていたから。〟

と語る。
最後に押井は


〝働いているのは女性ばかりで、男は昼間っから酒を飲んで昼寝をしているだけ。極論すれば、こうやって生きるのが男のテーマです。
(中略)
男はやたら戦闘的だったり、体を鍛えて筋肉をつけたりするけど、そういうことしかできないからですよ。一過性の人生で、何も残さず消えていく。文豪でも政治家でも、死んでしまったらそれでおしまい。言葉を残すしかない。男は最終的には言葉以外、残せないんですよ。
ちなみに最もダメな考え方が「オレは男だ!」という過剰なマッチョ的意識。こういうヤツは徹底的に無視するべきです。〟

と男性観を語る。
以上が女性観インタビューにおける押井の主張である。全文は ぴあ 公式アプリから確認できる。細かいところはそこで確認してほしい。


第二章 反論

以下では第一章でまとめた五段階それぞれに反論を加えていく。



この命題に関しては押井は会員制のブロマガで何度か口に出していた。そこでは男女の友情は成立しないという論も建てたれていた(お便り欄からバイセクシャルとしてこの見解に反論したこともあったけど、あまり中身が語られることはなかった)。
こうした命題は、この論全体と同じく古典的なものであると言える。この命題の立て方は──押井が最終的に述べるように──女性の人権を制限することに極めて都合が良いものだ(そもそも男女が全く異なり理解できないのであれば、なぜ男性が女性を完全に理解したかのように語れるのか、という疑問が浮ぶが)。
この女性というのは理解できない他者である、とすることで男性の領域を確保しそれを正当化するという考えは古くからあり、多くは女性を男性の下に見る考え方でなされてきた。
しかし、19世紀では女性というものを女神視し、この同じロジックを裏返し、女性は偉大な存在でありそれ故に男性のような領域に堕ちる必要がないという論理が現れる。この背景には「新しい女」と呼ばれるような女性の登場があるだろう。それまで男性のみに許されていた行動を行う彼女たちは、社会から男性化という病理とみなされた。
つまり、愚かしい女性と完成された人間としての男性という構図が、男性的な行動をする女性の登場によって、完成された女性がわざわざ男性化するという構図に置き換えられたのだ。構図の上での優位性はしかし、単に同じ結果を保持するものでしかない。

こうした女性と男性を分け、どちらかの優位性を解く考えをセクシズムという。押井のこの命題の立て方は、まずこうした歴史性─押井の言説が古典的な言説と極めて近しい─の上で考えられるべきだ。


押井は生まないという選択肢と生めないということは違うという。まずここでは子供を産めない女性(多様な女性がここでは想定される)に対する視点が欠けていることを指摘できる。
次に押井は子供を持っても男性はその実感を得にくいとする。押井は自身の体験を振り返り、娘を初めて抱いて「責任感」と「緊張感」しかなかったとする。しかながら女性が母親になるというのは簡単なプロセスではない。実に3割の母親は産後うつを発症するし、60%以上の母親が新生児の養育に孤独を感じる。押井の指摘は女性の養育における苦しみを無視している。また女性と出産をめぐる言説は男性研究が行われないまま作られてきたことはつとに指摘される。こうした状況時代が母親にとってストレスであることは想像にかたくない。
また押井は女性が子供を分身とみなす傾向を指摘するが、これは全世界的な女性の特徴ではなく、比較研究において日本の母親特徴とされることもある(無論この図式は極度に単純化されている)。つまり社会的な構築性が高い論にすぎず本質を語るものではない。

社会的な構築か?本質か?この両者をめぐる思索こそフェミニズムの成果である。



ここで押井は子供を産める女性はそれゆえに、男性と違い歴史や文化経済を必要としないというロジックを作る。

まず女性がフェミニズム的な近代性とは異なったところで文化を形作り、歴史を紡いできたことを確認する必要がある。
女性に対して期待される役割は時代によって異なってきた(押井のこの女性観論を押井が女性に期待することとして読むことも可能だろう。多くの歴史において女性に期待されることは女性の本質として語れてきた)。たとえば平安宮廷では女性は子供を生むとともに文化の担い手であることが要求された(ここでは女性の中にも階層がありそれぞれに期待されることは違った)。
また現代では家庭内手工芸の見直しの動きがあるが、これは家庭内における女性の表現を積極的に評価しようというものだ。女性の文化は単に抹消されるか、矮小化されていたにすぎない。
押井は男性が自己の痕跡として文化を残し、女性は子供を産み自身の歴史を紡ぐためにその必要はないとする。このロジックの裏には母親と子供の一体感があるが、この言説は先述のようにまやかしに過ぎない。

また母親と子供の一体感は同時に、子からの母親への要請としても働く。この子からの母親的なものと一体感を持とうとする幻想は隠されてはいるが女性観インタビューにおいて示されている。この回路は同時に子から母親を規定しようとする回路として働く。
押井は全体として女性観インタビューの中で自身の立場を曖昧にするが、視点を変えばここで中心的課題となっているのは母子関係に他ならない。


押井は男女に徹底的な違いを説きながら、自身は女性と違い女性の本質を理解していることを主張する。このロジックは完全に反論可能性を塞ぐものであり、押井によるセクシズムが女性嫌悪に寄った瞬間である。
押井の論に乗るなら、この論考を書く私という女性は、男性の価値観に呪縛された女であり、哀れまれる存在である。押井は19世紀の人間のように男性的になった女性への苛立ちをここで示す。個人的感想だけど、この対話不能性を持ち出してきたことが一番しんどかった。この箇所は#MeToo運動に関するものなのに突然フェミニスト全般の話を始めるのもしんどかった。好意的にみれば、それは重すぎるから語らなかったのかもしれないけども。

ここでは反論を諦めて、押井のいう「女性の本質」とは具体的にになんなのかを考えてみよう。
押井はイノセンスでロゴスと身体の物語を描いた。ここでロゴス的な存在に対比し上位者として持ち出されるのは、自意識を持たないである(このことが示される場面でロマン主義の巨匠シェリーが持ち出されるのは興味深い)。
この構図を、押井の女性観インタビューに当てはめれば、押井の言う「女性の値打ち」とは自意識を持たないか、持たない状態になれること、にあるのは─押井の身体論からも─と考えることはできだろう。

これもまた、霊感を与え無意識に美を生きる女性─それと裏腹の男性的な女性への苛立ち─という19世紀的な思考に極めて近接する。


ここで注目されるのは、働く女性に支えられる男性という像が唐突に現れるところだ。押井はこれまで経済活動などから女性を疎外する論を展開してきたが、男性観を語るに至り、女性が主体となって動かす社会を夢想し、男性から自意識を剥奪する。
そのように生きられないから男性は言葉を使う、と展開するのだが、その時に働く女性という像はどこへ消えるのだろうか。押井は男性を言葉の存在として語る時、同時に働く女性をこっそりと消してみせる。それはまた、言葉の存在としての男性というアイデンティティに、社会を持つ女性が邪魔であること暗示する。

まさにこのインタビューは、女と母を同一視し、子として母を要請し、女を語り自身の男性性を主張するものとしか読めない。押井の嫌悪するマッチョさはなった本人により完成される。

第二章のまとめ

結局にところ押井のここでの発言は、男性の成立のために女性を排除するものであり、また男性的な言説を用いる女性を排除する極めて19世紀的な考え方に近いものであると思っている。そして同時に母を求める子の姿を反映している。
それは女性を崇めながら時と場合によって女性嫌悪として発動するセクシズムでもある。
押井に作品からいわゆるダメ男への愛着があり、男女の違いにこだわる監督であるのは知っていたけど(この違いを経験的なものを誇張的に見ることだと思っていた)、ここまでまとまった形で剥き出しにされると、どうしようもない。性的な対象化をあまり出さないのは良いけれども。


第三章 インタビューを前提にした押井作品の読解断片

ではこのインタビューをもとにした場合、どのような読みが開かれるだろうか。いくつか可能性があると思う。(かなり未整理)

宇野常寛による『母性によるディストピア』という評論があるが、やはりそれは「母性を求めるディストピア」と解されるべきだろう。母と子が一体であるはずだという信念を、男性の子から発し続けた歴史が、日本のサブカルチャーには確実に存在する。これを女性の側からだけではなく、男性の側から女性にどのように働くかを考えていかないといけない。そしてまた女性である私がこの構図にどう参与しているのかについても。
押井の女性観インタビューは、この構図がいかに隠蔽されており、またそれがいかに働くかを表す端的な見本である。

押井は男女の違いに言及する際に、女性が持つ同族意識について触れる。スカイクロラ以降押井作品では女性同士の絆が重要視される。押井の女性観インタビューを踏まえれば、ここにセクシズムの痕跡を考える必要があるかもしれない。それはまた同時にフェミニズム的な女性同士の連帯の可能性も示唆するのだけども。
セクシズムと男性同性間の絆はイヴセジヴィックなどに詳しいが、女性同士の中でどのようにこれが行われていくかを考えないといけない。いわゆる百合文化というところまで射程に含めて、これを考えていかないといけない。それは異質な女を排除することになるからだ。同時にまたこれは女性同士の絆がどこへ向かうものなのか?という問いを常に持つことでもあると思う。それは女性のソーシャルを持つことであり、それをすくう事でセクシズムを解体しようという読みをやっていく事でもある。

また押井作品には出産と関わらない女性たちが多数表れる。彼女たちはサイボーグであったり人工的な存在だったりデータに近い存在であったりする。その意味で、彼女たちは押井の言う男性に近い存在であり、押井の彼女たちに対するフェティッシュを、自己愛的な表現と見ることも可能だろう。しかしそれはまた同時に、押井の女性理解とは違い、言説を持ち文化を作る女性である私─そして社会からの期待に反発する私─にとって近接的でリアルなものともなる。
押井は常に異質なものを描こうとする。押井の女性理解によりそうなら、押井は女性という本質的なアイデンティティを持てない女性を描いてきたことになるが、私はこれを、女性という構築されたアイデンティティを持たない女性を描いてきた、と読んできたことになる。これからも、そう読み続けるだろう。

追記 2020年3月17日21時56分
押井監督がインタビューで述べたような女性観をそのままキャラに投影したりその主張としてキャラを演出しているわけではないとは思う。

追記2 2020年03月19日
押井監督の最大の偉業は、ファンコミュニティに自身の批評性や考え方を伝えられたことだと思ってる。今回の記事に関しても(賛否含めて)すごく健全な議論や批判が多くて、押井監督の作品や語り方が正しかったのだと改めて思う……。


終わりに

押井守のここで示した女性観は端的にいって酷い代物だと思う。私は散々同じことを言っているけどまるで19世紀から届いた通信のようだし、押井守を19世紀の偉大な作家の中に位置付けたくなる。私はこういう単発の記事や現象に対する言及をなるべく避けてきた(酷く差別的だったり、自分のアイデンティティやコミュニティに関わることは別だけど)のだど、押井ファンとして書かざるを得なかった。今もしんどいし、できれば公開したくないけど、本人からお出しされたのだから仕方がない。こうしなければ私がやってきた事の存在意義を問われる。
オタクでフェミニストはたいへん多いけど、それはやっぱりしんどい事だ。オタクで女性であることがしんどいのと同じく。どれだけ読みと解釈によって抵抗を続け、あるいは諦めて受け入れ、その上で作品を消費してきても、本人の口から出る言葉への衝撃は大きい。それはお前はこの文化に関わる資格がない、と告げるかのようであるから(オタク文化の半分は女性のものだけど。ボトムズとサムライトルーパーの関係を考えて)。語っているのがシェイクスピアでもなくヘルマンヘッセでもない、今を生きる同時代人だから余計にしんどさは増す。

とはいえど私は押井守ファンを続けるだろう。押井の描く世界はそれでも美しいし、複雑な文脈に満ちている。おおくのフェミニストやクィア研究者が、古典に様々な読解を加えてきたように、私は押井作品をこれからも読み解いていくと思う。簡単には割り切れないし、これを公開したショックは大きいけれど師匠と戦うことも押井守から受けた教え。他の押井ファンにもこのインタビューに危機感を持ち人はいる。50代で考えが変わったそうだけど、60代で日本海溝の底で深く反省して70代でまた変わればいい。


PS

ところで押井守監督の新作『ぶらどらぶ』の公式は本当に大丈夫なの??????????

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