見出し画像

自分の中で当たり前になったものを評価の対象から外す必要はない

こんにちは、夜枕ギリーです。無職やフリーランスといった時間を自由に使える人の中には、土日に外出したくない派と、外出は土日にしたい派に分かれるといいます(そもそも外出しない派は置いておく)。

前者は平日の人の少なさをメリットとして素直に享受できる人たち、後者は一般的な生活スタイルに擬態することで、自身に(疑似的な)社会性を認めて安心する人たちです。社会から外れる生き方というのは、狂いと隣り合わせということ。会社勤めでも狂うときは狂いますが……。

というわけで5月、世間はGW。「今日は平日だけど休みにしている人もいるから出かけても不自然ではないな」という謎の安全確認を無意識にやっていました。社会性、ヨシ!



以前は月初めの記事には活動報告の役割を与えていましたが、すっかりそのスタイルも無くなりました。なぜなら報告するような目新しい活動が特に無いので。定期配信とnoteの更新しかしてないので……。

私はこの状況を「VTuberとしての活動量:ゼロ」と認識しがちなんですが、本来定期配信もnote更新も一般的には立派な活動のはず。あんまり言い過ぎると自分でその解釈に甘えてしまいそうだし、「か、活動してるやい!」と主張したいわけではないのですが、ついついこの事実を忘れて焦燥感や罪悪感に苛まれます。

なんというか、定期的にずっとやっているとそれが標準となり、標準であるために自己評価にカウントされないみたいなクセが自分の中にあります。実は定期的に大喜利動画を出していた時にもこの感覚はありました。大喜利以外「何もしてないし」新しい動画を作らなきゃみたいな感覚。どうしても新企画や単発動画、コラボといったイレギュラーなものだけを立派な活動と捉えているんですね。

自分が視聴者の立場に立ったときは推しに対してそんな「定期配信ばっかだな!企画やってよ!」みたいな考えをするわけもなく、むしろその標準の活動が楽しみで推しているとすら言えます。そう、その活動がすでに標準のものになっていて、なおかつ見に来てくれる人がいるのであれば、その標準こそが需要そのものであるはずなんですね。なのに自分事となるとそこを失念しがち。

特に私の場合は今までのVTuber活動でジャンルAをやってBをやってCをやってきたのに現在は配信ばかりなので、AやBやCの動画を出さなきゃな~というプレッシャーがずっとどこかにあります。なので自分を追い込むためにも配信を止めて動画作りに集中した方がいいのでは?という考えが浮かんだのですが、ちょっと立ち止まって考えてみたのがこの記事です。

過去に扱ったジャンルや新しい企画を期待してくれている人がいるのも事実だとは思うけど、かといって今現在それなりに時間をかけて取り組んでいる定期配信がその場しのぎで需要の無いものなのかというとそれは違うはず。伸びたいなら需要を掘り当てるのも大事だけど、今あるものを正しく評価するのも大事。

この例とは逆に、人がやってくれてる当たり前のことを当然のものとして扱い、評価やありがたみを忘れてしまうパターンもありますね。ワンオペ解雇とか、補助魔法パーティー追放とか……。

なんか「自分の中で当たり前になったものを評価の対象から外すのは違うよね」という普遍的な話のつもりが、単に自己正当化の話になってしまった気がする。いやいや、VTuberに限らず感覚がマヒして正当な評価ができないなんてことはよくあることなので大事なこと。大事なはず。きっとそう。



これはCOOP共済が配っていたポケットティッシュ。描かれているクマっぽいキャラは「コーすけ」というマスコットなんだけど、これといった情報らしい情報が無い。


えっちだ……。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?