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社会的に成功した人による弱さや辛さを綴った言葉は偽物なのか?

こんにちは、夜枕ギリーです。

この土日、なんかめちゃくちゃ時間が進むのが早かったですね。ここ半年で一番かってくらい早かったかも。皆さんお住まいの地域はどうでしたか?急激な時間経過には注意してくださいね。


悩みや苦しみや辛さを綴った言葉を社会的に認められた人間が発信するのはどうなんだという話。もしくは出したところで、今現在悩み苦しんでいる人のそれより薄っぺらく、偽物なのではないか、という考えについて。

少し前に「ウ」という方による「どうして僕はにゃるらのアンチになったのか」という記事を読みました。にゃるらさんは、最近だと「NEEDY GIRL OVERDOSE」というゲームの開発でも有名になったネットの有名人、筆者がそんな彼のアンチになった経緯を綴った記事です。

にゃるら氏は社会不適合者を自称し、自分の人生や生活を退廃的で落伍的なものとして評価し、病みとも呼べる日記で人気を博していました。ただ最近はゲームが大ヒットしたし、身なりも整っているし、交友関係は豊かで、クリエイターとしても羨望される立場になりました。そんな人間が、弱さや悲しみや生きづらさを発信するなよ、俺たちから奪わないでくれよ、という叫びの記事だと私は受け取りました。

別の場ではダ・ヴィンチ・恐山さんがある日記集を紹介していました※。不詳の人物により1970年代に書かれた日記を、たまたま古書として出会った編者が再録して本にしたものだそうです。※有料記事だけど引用は許可されています

日記の内容としては文学青年の筆者が、自らも文学を書きたいと思うも実際には形にできず、金と時間をギャンブルと酒に浪費し、一時的に後悔するもすぐに繰り返し、自分自身の体たらくに失望し、理想とする作家像と自身とのどうしようもなく埋められない断絶について綴られた日記だそうです。

これに対し恐山氏は「曲がりなりにも何かを完成させた文豪の描く煩悶が嘘くさく思えてきてしまうほど」と感想を述べています。

分かる。

弱者の立場で語られていたり、またはそれに寄り添うようなコンテンツはこの世に溢れています。しかしよくよく読んでみると筆者自身はその立場にいなかったり、克服していたり、自分より恵まれた環境にいたりして「お前に何が分かるんじゃい」と反発心を抱いてしまうのはよく分かります。

反発心というか「ウ」氏が綴っているように、何も持っていない私が辛うじて持っている弱さやつらさまで奪わないでくれよという気持ち。生きづらさのレポ漫画を読んでいたら理解ある彼くんが出てくるパターンが叩かれるのも同じ系譜かもしれない。

さらに言うと私のこの記事で1秒前に発言した「分かる」もそこに含まれかねない。しかしそれを言い出すとキリがないというか、それらをすべて認めていくと弱さについては世界で一番弱い人間、つらさについては世界で一番つらい人間しか発信できなくなってしまう。

なので発信自体はもちろん自由だし、そもそもつらさや苦しみなんて主観だから比較できるものでも無い。にゃるら氏も「ウ」氏の記事に対し「僕の主観ではもちろんこちらだってつらいこと悲しいことも多々ある」と述べていて、それもにゃるら氏にとっては本当なのだと思います。

詰まるところ他者によって書かれたつらさや弱さが本物かどうかを絶対評価しようという試みにあまり意味はなく、共感したり参考にすることで自分に良い影響があるなら取り入れたらいいし、偽物だと思うなら視界から外すなり、正面から本物をぶつけるなりするしかないのかもしれません。

私は「自分より社会から承認されている人間の苦しみなんて薄っぺらい」という意見に共感することで気持ちが楽になるので都合よく共感していこうと思います。

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