太宰治の「疎開の家」を訪ねて
太宰は、昭和20年7月、戦火を逃れて、金木の生家「斜陽館」に身を寄せたが、その時家族で住んだ生家の離れ(新座敷)が、斜陽館の東90メートル程の処に曳き家されて残っている (上掲の写真)。津島家は、その後、この家を手放し所有者も変わった。
現在この家を管理している人の話では、斜陽館の訪問者で、ここまで足を延ばす人は殆どいないそうだ。現に、私が訪ねた時も、居合わせた人は大阪の池田市から来たという女性一人だけだった。
太宰はこの離れで約1年4か月を家族と共に過ごし、「パンドラの匣」など23作品を書き上げた。
ここでは、どの部屋も自由に立ち入ることができる。で、太宰の仕事部屋の文机の前に座り、文豪になった気分で(笑)、大阪の女性に写真を撮ってもらった。(勿論、女性の写真も彼女のスマホで撮ってあげた。)
斜陽館と疎開の家を見学し、斜陽館の左斜め前に在る物産館内のメロス食堂で昼食。小憩後、物産館のすぐ北に在る津軽三味線会館で、津軽三味線の生演奏を聴いた(約20分)。知らなかったが、津軽三味線はここ金木町が発祥の地だという。
この後、来た時とは違う道を歩いて金木駅に行き、同駅発午後1時56分の津軽鉄道で五所川原まで戻る。それから五能線の鰺ヶ沢から来た電車に乗り換え、奥羽線経由で弘前へ向かった。